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橘曙覧について

最終更新日 : 2009年2月4日


橘曙覧(たちばなあけみ)          文化9年(1812)~慶応4年(1868)

 菱川師福画橘曙覧像(郷土歴史博物館蔵)

幕末の歌人・国学者。文化9年(1812)、福井城下石場町(現、つくも1丁目)の商家、正玄(しょうげん)五郎右衛門の子として生まれた。幼名は五三郎、名は茂時、後に尚事、さらに曙覧と改めた。国学者としての舎号に黄金舎(こがねのや)、志濃夫廼舎(しのぶのや)があり、漢号に霊(れいいん)がある。
両親との縁薄く、2歳で母鶴子と死別、15歳で父が没する。母の没後、母の実家である府中大黒町(現、武生市天王町)の酢醸造商山本平三郎に養育された。文政9年(1826)15歳のとき、南条郡南条町西大道の日蓮宗妙泰寺の僧、明導に仏教を学んだ。18歳のとぎ、京都の児玉旗山の塾に入門し、数ヶ月後に帰国した。
天保3年(1833)21歳のとき三国湊海津屋(酒井)清兵衛の次女、なを(直子)と結婚。後に家業を異母弟に譲って愛宕山(現、足羽山)の黄金舎に隠棲した。弘化元年(1844)飛騨高山の国学者、田中大秀(おおひで)に入門。妻永元年(1848)、黄金舎から三ツ橋(現照手2丁目)に転居し藁屋(わらや)と称した。安政5年(1858)松平春嶽の命を受け「万葉集」秀歌36首を撰歌して、自らの歌と共に、当時、江戸霊岸島邸に蟄君する春嶽のもとに送った。また、文久3年(1863)福井藩の政変で蟄居を命じられた中根雪江にも和歌を贈っている。元治元年(1864)正月、松平春嶽より煙草を賜る。春嶽より福井城出仕を希望されるが辞退した。
 

 藁屋跡
 

慶応元年(1865)福井藩より年米拾俵扶持を給せられた。慶応3年(1867)12月、王政復古の大号令布告により歓喜の歌を詠んだ。しかし、慶応4年(1868)8月28日、維新を見ずに世を去ることを嘆きつつ、57歳で病没した。墓は福井市田(た)ノ谷(たに)町大安禅寺にある。
歌集には「志濃夫廼舎歌集」その他、著述には「さかきのかをり」等が知られる。その作風は江戸時代歌壇の中では異色な万葉調の生活歌を詠み、明治になって正岡子規が「万葉・実朝以来の歌人」として絶賛した。以降、幕末の勤皇歌人としてもその代表として記されることか多かったが、平成6年6月13日、クリントン米大統領が、天皇皇后両陛下の訪米歓迎スピーチで、その作品『独楽吟(どくらくぎん)』の1首を引用したことを契機に、新たな再評価を受けつつある。
 

 大安禅寺墓所(奥墓(おくつき))
 


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