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最終更新日:2020年11月4日

ふるさとを愛す ~豊田三郎画伯の絵画から~


 広報ふくいで、平成20年6月10日号~平成27年7月10日号までの約7年間、連載「ふるさとを愛す」において掲載した、豊田三郎さんの絵画作品と、その作品について自ら書いた解説や詩歌をまとめて紹介します。(全78回分)

掲載号 作品名・作品年 豊田三郎画伯による解説文・詩歌

平成20年

6月10日号

瀞

瀞(とろ)〈1992年〉

作品「瀞」について

水面を凝視すれば、人の心を引き込んで、

安らぎを与えてくれる。

その安らぎは明日へのエネルギー。

更に観察すれば、

水面の小波(さざなみ)は、

始動への予兆か。

「静」と「動」との狭間にて。

7月10日号

夏の午後

夏の午後〈1997年〉

夏の午後

夏の植物は、充分陽光を吸収して、

豊満な力を蓄えている筈(はず)なのに、

今し太陽が西に傾き始めたと見るや、

一層、光を吸収せんとする、貪婪(どんらん)な勢に、

暫し、立ちすくみ、激しい気迫を感じ、

翻然(ほんぜん)、絵筆は走り、一気に描き上げた。

光と緑の大シンフォニー。

8月10日号

渕辺盛夏

渕辺盛夏〈1992年〉

渕辺盛夏

風もなく、どうしようもない。

湿っぽい、この暑さ。

静かなほどが なお、暑い。

川の小鮎も、木陰にひそむ。

福井の夏の、汗ばむ暑さ。

9月10日号

秋日和

秋日和〈1991年〉

秋日和

秋の昼

ヤッホーと

呼びたくもなる

爽かさ。

空気も水も

透き通る。

10月10日号

錦秋

錦秋〈1989年〉

錦秋

杉の年芽(としめ)の 最美のみどり。

諸木黄金(もろきこがね)と 織りなすたくみ。

目路の限りは 唐にしきなる。

絶対無限の 御手(みて)ぞ尊し。

11月10日号

白亜校のある風景

白亜校のある風景〈2001年〉

白亜校のある風景

山里は 狭き山峡(やまかい)と 思いしが、

こゝは 里一番の 広みなり。

都ぶりたる 白亜校、

その高台に 大らけく、

学びて 人と なるべかり。

天空高く 翔ぶ 鳶は、

それの雄飛を、案内(あない)すと。

12月10日号

冠雪

冠雪〈1990年〉

冠雪

昨夜来 一入(ひとしお)寒波 厳しくて

朝(あした) 耀々(ようよう) 冠雪眩し

鮮(あざか)なる神の御手の尊とけれ

一夜に変る おゝ大自然

高らかに響(ひびき)ぞわたるくだかけの

朝(あした)を告げる声や朗らか

いと爽(さわ)に人の心も須臾(しゅゆ)にして

今日のたつきに勇みに装う

平成21年

2月10日号

如月の雪

如月の雪〈1991年〉

如月の雪

如月を「衣更着(きさらぎ)」と古語に言う。

更に寒波の強む意と見る。

小寒、大寒 膚(はだえ)に痛し。

万雪に冠たる王者の貫碌か。

その髙貴、森厳(しんげん)、比ぶものなし。

尊きかなや、あゝ、如月の雪。
3月10日号

早春

早春〈1989年〉

早春

弥生も終り 残雪もなき 

   この山里の早春ぞ

凡眼(ぼんがん)に見れば 

   変哲もなき 向山(むこやま)の姿なる

眼(まなこ)を凝らせば 

   何と厳しき 宇宙の目覚めぞ

ほのぼのと 命の動き 

   南風(はえ)渡る空

内に哲学 潜めつゝ 

   この早春の大らかさ

5月10日号

五月晴

五月晴〈1986年〉

五月晴

五月明(あかる)しと 人の言う。

まこと、五月は青春を、

謳歌したくなる季節。

野も、山も、陽は滴り、

新緑、また 目に爽やかなり。

世は挙げて、見えぬ力に、

むくむくと、動く気配して、

人の心も、小鳥の声も、

鯉のぼりさえ、寿(ことほ)ぐ如し。

五月明しと 人の言う。

6月10日号

橋のある河岸

橋のある河岸(かし)

〈1997年〉

橋のある河岸

岸の木叢(こむら)の重量感、

橋と流れの運動感、

画面構成 不安なし。

初夏の日射しに影深く、

川の流れは 真澄み澄す、

鮎子 日増しに育ちゆく、

この山峡も 佳境なる。

7月10日号

麓の里

麓の里〈1991年〉

麓の里

新緑を 謳歌したるは 春のこと、

七月(ふみづき)は 夏の真ん中、

緑は深く 万緑一如(ばんりょくいちにょ)。

麓の里は 田植えも終り、

早苗は伸びて 一休み、

山懐(やまふところ)に 平和な憩い、

夕辺の梵鐘 祈りの音色、

今日も事なく 平和な憩い、

麓の里は いといと静か。

8月10日号

夏の杉

夏の杉〈1986年〉

夏の杉

取り立てゝ特徴づける事象もなく、

 それぞれの物が、それぞれの力毎(ごと)に、

 充実へ勤しむ 夏の杉叢(すぎむら)。

平凡に感ぜられながら、

 茫洋(ぼうよう)とした安心感が漂っている。

事なき事が幸福である事を思わせる風景。

それでいて、子は親を慕い、親は子を護(まも)る、

 一家団欒の雰囲気が漲(みなぎ)る。

見る程に、人間生活の機微を教えてくれる自然。

変哲もない、こんな一角にも潜んでいる、

 自然の美を 見逃してはならない。

9月10日号

午後の陽差射

午後の陽差射(秋日の入り口)

〈1991年〉

秋の日の出入の橋

斜陽明るき村里の、出入の橋は、村人の、

思い 交々(こもごも) 行来(ゆきき)する。

昭和八年完成の、足羽が鄙(ひな)に不似合の、

堅牢無類の橋物語。

鯖江三十六聯隊(れんたい)・六呂師演習場への軍用路。

県下に誇る橋として、耐えて、護(まもり)て来しものを、

天よ‼何せん、戦争、敗戦、時代変遷七十年。

平成十六年七月、福井豪雨に耐え切れず、

遂に、崩流消滅す。

今、新しく架けたるが、昔の縁(よすが) 更になし。

搗加(かててくわえて)、村人も浮世の浮沈(ふちん)、身に受けて、

人情、転(うたた) 歴然と、今昔の感 厳しくて、

移り変りて 悲しくも、昔を偲ぶばかりなり、

秋の日射しは明るきに、

嗚呼(ああ)、昔を偲ぶばかりなる。

10月10日号

錦繍

錦繍〈1990年〉

錦繍

春は明るき 優美な衣、

夏は豊満の王者の貫禄、

秋は唐錦の錦繍謳歌。

果なき神手(みて)の妙(たえ)なるうちに、

中にも錦繍の この艶やかさ。

河岸(かし)の紅葉がいと静々と、

山に移れば 山は杉森。

年芽新し 最美のみどり、

見渡す限り 緑、紅(あか)、黄(きい)。

この錦繍は神の絨毯。

11月10日号

麗秋

麗秋〈1997年〉

麗秋

絢爛(けんらん)と、秋、酣(たけなわ)に 彩りて、

輝く栄(はえ)に、勝ち疲れ、

暫し、平穏に、一休み。

然(さ)れど、間もなく、晩秋の、

気配となれば、遅れじと、

冬将軍を、心待ち。

流石に、秋を、麗しく、

余韻を残し、秋は行く、

優しき心、尓尊(いやとうと)。

12月10日号

潺々

潺々(せんせん)〈1991年〉

潺々

足羽川 河原(かはら)八千草

   秋闌(た)けて 萎え急ぎつゝ。

見晴かす 景色も樹々も

   驕(おご)りせし 縁(よすが)もあらじ。

泡(うたかた)の 哀れ抱きて

   潺(せせらぎ)は 速(と)く流れゆく。

師走とう などか寂しき

   人の世の 運命(さだめ)にも似て。

平成22年

2月10日号

吹雪く

吹雪く〈1991年〉

吹雪く

何をかも 埋め尽くして 降りこむる

  吹雪(ふぶき)のさまの 凄(すさま)じさかな。

神の手の 箕(み)から落とすか 滝うちて

  横なぐり降る 厳しき吹雪。

帰り来て 手足の痺れ 慰(いや)さんと

  水道水に手を浸したり。

アイター アイタアーイタタ ウーイタイ

  生身の骨を 切らるゝ如し。

漸(ようや)くに 痛み戻りて 作品見れば

  吹雪のよすが あますとは無し。

誰(た)が人も 吹雪を描くは 現場にて

  吹雪の中で 吹雪を描(かこ)う。

3月10日号

春陽

春陽〈1991年〉

春陽

南風(はえ)は明るく、斜(ななめ)に照らし、

雪の山稜(さんりょう)、見事に交差。

紫紅(しこう)の杉森、巧みに和して、

紅白 交々(こもごも)、清(すが)しアラベスク。

揚氣は麗(うらら)、心朗らか。

絶対無限の、技の妙なる。

4月10日号

膨芽春水

膨芽春水(ぼうがしゅんすい)

〈1993年〉

膨芽春水

〇 奥山の、雪解の水も、温(ぬる)みつゝ、

    遠く流れて、長閑な自然。

〇 鄙(ひな)ながら、人の心も、ほのぼのと、

    夢見る如き、陶酔境に。

〇 暖(あたか)くば、岸の欅も、誘われて

    梢の蕾、呼び起(おこ)すなる。

〇 また固き、萼(がく)は膨らみ、さながらに、

    紅(あか)き毛糸の、肌ざわりしく。

〇 一揺(ゆす)り、南風が揺れば、忽(たちまち)に、

    浅(さ)みどりの芽と、早替(はやかわ)るらん。

〇 妙なれや、静と動との、狭間にて、

    調和を保つ、技の鮮けし。

5月10日号

田拵え

田拵え(たごしらえ)〈1993年〉

田拵え

〇 若き日は 春駒引きて 田起(たおこ)しに

    疲れしことも 今は昔か。

〇 田沖原 馬一つ居ぬ 田拵え

    人も見えなく 機の唸りのみ。

〇 季は麗(うらら) 人は長閑な 田拵え

    様変(さまがわ)りせる 今の挿秧(たうえ)は。

6月10日号

初夏

初夏〈1992年〉

初夏

初夏の 平和な この盆地、

田沖 漸(ようや)く 早苗も 気負い、

天空高く 降り注ぐ、

神の御手(みて)漏る 陽の雫。

入相(いりあい) 来れば 山寺(さんじ)の凡鐘(ぼんしょう)、

遠く渡りて 天に消(き)ゆれば、

小鳥も 人も 悠久の、

夜の帳(とばり)に 静かに憩う。

今世(いませ)に 珍らな 平和な 無音(しゞま)、

こゝは 山間(やまが)の 初夏の里。

[福井市折立町・称名寺山門楼上凡鐘の下にて]
7月10日号

樹陰清流

樹陰清流〈1991年〉

樹陰清流

時は文月、盛夏漲(みな)ぎる。

河岸(かし)の岩場は、樹木を蓄え、

川は必ず 渕瀬を抱(いだ)く。

流れる水は真澄(ます)み澄みたる、

樹木の陰は夏なお涼し、

陽陰(ひかげ)、木陰に鮎子は踊る、

今時、自然が残って居たか、

その玲瓏感(れいろうかん)は誰のもの

明暗交々(こもごも) 下流へ去り行く、

何か、泰然の気、然(しか)く漂う。

8月10日号

休耕田もある

休耕田もある〈1990年〉

休耕田もある

今は昔。

山間僻地(へきち)の農民は、山の斜面に棚田を作り、米作る。

今の世代はグローバル。

社会組織も、経済生活も、世界水準に伸(の)し上り、

古人が汗した肥沃な美田を、減反政策の休耕田。

外来食品強いられて、苦しき肥満の人の波。

ご先祖達も、吾々も、残念がって生きている。

これが文化か、文明か。

真夏陽(び)に、裸で焼けてる田圃が可愛い。

こんな自然も絵に描けば、美事な絵にはなるものを。

なんと自然は素敵だろう。

9月10日号

収穫近し

収穫近し〈1996年〉

収穫近し

収穫が始まれば、村は忽(たちま)ち騒々しくなる。

その瞬間を、森も自然も、息をこらえて、

今か今かと、ジッと見守る、その無言(しじま)。

ベートーベンの「田園」も、その瞬間の妙をキャッチした。

吾々も、その無言を、感じませんか。

10月10日号

収穫あと

収穫あと〈1997年〉

収穫あと

収穫あとの田ん圃の 細道歩いていたら、

 川辺の方から 風が吹いて来た。

その風は 新しい株の匂(におい)が一杯だった。

何か涼しい、豊かな気分になって来た。

畔には真っ赤な 曼珠沙華(まんじゅしゃげ)が咲いて居た。

その隣には 野菊の花も 咲いて居た。

見ていたら、野菊は 畔に立たんとし、

 また、立たんとし 秋風が吹く。

あゝ、そうなんだ 天気が良くても、

 やっぱり もう秋なんだ。

11月10日号

穭田

穭田(ひつじだ)〈1990年〉

穭(ひつじ)田

早刈りの 田ん圃に少し 残る秋

   勿体なくて ひつじが伸びる

南國は 二度の穫(と)り得(え)の あるらんも

   こゝは北陸 望(のぞ)みうすきに

陽は照れど 秋風寒く つるべ落ち

   実らぬうちに 雪が降ろうに

穭穂に「何を当てに」と 一茶は歌う

   生きてしものゝ 運命(さだめ)しあるか

さはされど 勤め終りし 後なれば

   慰し心の 仕草にも似て

12月10日号

電柱のある風景

電柱のある風景〈1991年〉

電柱のある風景

一世紀ほどの昔、この山里に、珍(めず)らにも、

文化の香り魁(さきがけ)る。

上流の発電所より発進し、

いざ電燈(でんとう)ぞ、いざ電話ぞ、また、電信と。

昔は飛脚、今、瞬時に素っ飛(とぶ)電報と様替(さまがわ)り。

遠き都も、寂しき鄙(ひな)も、

さながら隣の如くなり。

人のたつきも、善悪も、

老の嘆きも、若きの恋も、

如何なることも、差別なく、

底無く入るゝ大度量。

寒き師走の雪原に、

冷たき電柱と人見れど、

中をルンルン音して走る、

文明・文化の熱き声々。

平成23年

2月10日号

黎明

黎明(れいめい)〈1987年〉

黎明

夜の帳(とばり)は 明けんとす

明と暗との この無言(しじま)

神神(こうごう)しくも 尊くも

分かちて昇る この旭(あさひ)

睦月の杜は 今暫し

夜の憩(いこい)の 名残り惜し

されど東雲(しののめ) 動き初(そ)め

かんかん呼びて 暁烏(あけがらす)

朝の光を 引きながら

天空髙く 導くを

この黎明よ 明らけく

世に魁(さきがけ)て 行くべかり

3月10日号

池田への道

池田への道〈1991年〉

池田への道

もう春隣り、弥生の雪道。

この絵の道の直(す)ぐ先が池田です。

「母はこの道を通って、生家と婚家の間を、

戻ろか往(ゆ)こか、心の葛藤に苦しみながら、

往き来したのかと思ったら、つい、

労わしく、愛しくなって、泣けてしまった」。

と、言う人がありました。

観る人の心々(こゝろごころ)に浸み入る絵、そんな絵は、

何かの役に立つのだろうと思うと、

吾ながら嬉しいものです。

4月10日号

残雪の嶺

残雪の嶺〈1993年〉

残雪の嶺

嶺わたり 山の狭(はざま)に 消え残る

  雪の子見えて 春ぞ愛しゝ。

見遙かす 山広々と 果なくも

  卯月山里 静かなりけり。

野も山も 長閑にあれば 野良人も

  声もひそめて 挨拶すらん。

あの峯の まぶのあたりは 薇(ぜんまい)よ

  こちらの陽当(ひなた)は 蕨平(わらびべら)なる。

昨日今日 山菜日寄り 若きらは

  薇穫りに 媼(おうな)はそを干す。

5月10日号

新緑

新緑〈1991年〉

新緑

嬉しやな 深山(みやま)の雪も 解け終り

  河岸(かし)の 樹陰を 清く流れる。

あら尊うと 絶対無限の 御手(みて)ならむ

  この新緑の 醸す雰囲気。

諸(もろ)若葉 目路の限りは 新たなる

  優しきみどり 飽きるとはなし。

緑陰の 下闇(したやみ)あたり 丸木橋

  農夫が一人 渡る長閑さ。

合流点 人は知らずも 川底は

  サイフォン式の 近代水道。

6月10日号

鮎釣る季節

鮎釣る季節〈1990年〉

鮎釣る季節

● 朝焼けの 山青ければ その前の

   桐の花叢(むら) かすか赤みつ

● 桐の花 散り初めにけり 二つ三つ

   初夏の朝明け そを踏みて行く

● 汗流れ 滴る作業の ひと時に

   夏雲写る 湧き水を飲む

● 陽はうらゝ 河岸に馥郁(ふくいく) 合歓(ねむ)の花

   田沖は早も 気負い立つみつ

● 夏けらし 川辺の木々は 陰深く

   静かにあれば 鮎子憩える

7月10日号

初夏

初夏〈1992年〉

※No.22の作品と同じものです。

初夏

將(まさ)に夏に入らんとする頃、

山野新緑 色は鮮やか。

春は挿秧(そうおう)で 多忙を極め、

秋は収穫で 多忙を極む。

人は一挙に 衣を替える、

今春秋の 狭間に向う。

農家は 田修理(たじゅうり)も終り、

一息ついて 秋に備える。

自然も人も 悠悠浩然たり、

殊(こと)に田舎は 大らけく 平安に‼

8月10日号

盛夏万緑

盛夏万緑〈1989年〉

盛夏万緑

この風景を見て、人はどう思うか知らない。

でも、私はこの変哲もない風景から

何か圧倒される様な感じがするのである。

視界は緑一色になったこの風景は、

大きな力で抑えれているのである。

そうだ、犯人は杉だ。

夏杉は「万緑を從(したが)えて、

王者の貫録」があるからだ。

それでいて、杉は寡黙に自然にも、

人間にも、有無を言わせず抑えつける。

悔しいけれど、私はそんな力が欲しいし、

好きなんだ。

9月10日号

秋づく

秋づく〈1990年〉

秋づく

今夏も暑かった。

どうにも、こうにも身の置き処もない程、

暑かった。

汗が顔から髭を伝って、

パレットにぽとぽと落ちる。

それでも私は絵描きだから描かねばならぬ。

でも、自然はやっぱり私の味方だった。

お盆過ぎたら思い出した様に、

一風、涼しい感じが通った。

八月も終りになると、猛暑だなんて

ケロリと忘れたみたい。

流石に自然はチョッピリ草臥(くたび)れた様だが。

10月10日号

秋光燦々

秋光燦々(しゅうこうさんさん)

〈1999年〉

秋光燦々

秋光燦々として輝けば

秋の気真澄みて 塵芥(ちりあくた)を知らず

清冽(せいれつ)なる人の 心にも似て

対山の杉 緑新たに

この時 正に「杉春」とや言うべかり

紅葉薀蓄(うんちく)を傾けて自(おのずか)ら静寂

宛(さなが)ら 冬將軍を迎うる姿勢や

あな 尊しの秋光燦々
11月10日号

鎮の杜

鎮の杜(しずめのもり)

〈1998年〉

鎮の杜

太古より 民護(まも)る 氏神(かみ)の、

御在(おわ)す 御座(みくら)の 在り処(ど)なり。

この悠然の気、この静寂の気、

親しき 大樹の 無言の 安心感。

そして厳しく、高きこの優雅、

たゞに尊し 鎮の杜は。

12月10日号

老杉耐雪

老杉耐雪(ろうさんたいせつ)

〈1986年〉

老杉耐雪

大人が五人も根周りする神木。

中には八百年程と言う人がある大杉。

丈余の雪にもめげす、

天に向って剛直に聳(そび)ゆる大杉。

山の稜線に喫立(きつりつ)する鎮(しずめ)の偉容、

氏子は総て古来から勇気付けられ、

助けられ、大人になり又為る。

平成24年

2月10日号

春醒

春醒(しゅんせい)〈2002年〉

春醒

山よ、よくぞこそこの寒い大自然の中へ

醒めてくれた‼この厳しい自然の中へ‼

平凡な山であるにも不拘(かかわらず)、身震いさせる

その魂を抱きて‼又、静寂の迫力を含んで‼

お前は今から霜に勝ち、寒さに勝ちて、

自然を導き、人間に幸福を施して行け‼

行けその巧をもって‼行けその底力をもって‼

そして自然を飾れ‼

3月10日号

早春

早春〈1997年〉

早春

早春未だ寒く、峯の木枯し凍(い)てゝ華の如し。

四方(よも)の草木芽吹きに早く、鄙(ひな)の人々も

まだ、山菜取りにも出(い)でず。

やがて、陽光進めば、視界は生きものの

様に、日々、活気を取り戻す。

生命は自然の魁(さきがけ)として、天空に嘯(うそぶ)く。

嗚呼(あゝ)‼ 沈黙の早春、実に、勁(つよ)し。

4月10日号

対山萠春

対山萠春(たいざんほうしゅん)

〈2008年〉

対山萠春

四界は仄々(ほのぼの)、心は悠々。

枯木は芽を吹き、金の芽、銀の芽生々と。

その不定形の群落を、濃緑の杉叢(すぎむら)は、

それぞれ不定形の侭(まゝ)の群落を、

額椽(がくぶち)の如く面白く圍(かこ)って、

目路の限りに広がり、

宛(さなが)ら、綾衣を延べた様な、楽園となる。

春はやっぱり、女性冠詞で表現すべきだ。

耳を澄ませば山中が春が来た、春が来たよと、

笑い合い、囁(ささや)き合って居る。

古人はこれを「山笑う」と表現した。

若きは稼ぎの山菜採りに、老は(おい)庭先で薇(ぜんまい)揉(も)みの

光景が浮ぶではないか。

5月10日号

花曇る頃

花曇る頃〈2003年〉

花曇る頃

見晴るかす春の陽の、麗(うらら)かとも言い、

長閑(のどか)とも言うこの景色。

遠き、近き山の峯々に、山桜が咲く頃、

空気最(さ)いも恍惚(うっとり)と靄(もや)いて朧(おぼろ)に霞む。

生けるは万(よろず)、夢か現(うつつ)か、

宇宙のいづくに 戦があるとや。

苛苛(いらいら)、擬擬(ぎすぎす)、命を縮めるストレス忘れ、

極楽の花園も斯(か)くやと紛(まご)う、

こんな自然のプロムナードは皆さん如何(いかが)。

6月10日号

胡桃咲き初む

胡桃咲き初む〈2003年〉

胡桃咲き初む

上流の村々の田植えが終り、川の流れも真澄み澄む頃、

皐月の湿潤な天候は、自然の急ピッチの繁茂(はんも)に、

一ッ時の間は「緑暗がり」(大圓)になるが、

その頃、河原辺は胡桃の木が多く、黒い、長い花房が咲く。

「ゆうらゆら春は胡桃の長簪(ながかざし)乙女しあらば

 簪みたきを」(大圓)。

又、一方、自然の諸木諸草(もろきもろくさ)は、種別毎の緑が

彩豊かに、ハーモニー良ろしく調和して「緑のシンフォニー」(大圓)

と言はせる天然の曲を奏でる。

嗚呼‼田園の素晴しさ。

住める者達の特権とや言うべかり。

7月10日号

緑深む

緑深む〈2002年〉

緑深む

単純化の 大らかさ、

孤髙の如き 寡色の尊さ、

省略の見事さ、大胆さ、強さ。

現代人の脳裡(のうり)で作る 歪曲(わいきょく)や、変形の

幼稚さ、見憎(みにく)さ。

如何(いか)に流派やジャンルに傾倒しても、

平凡な自然物の中にある美には勝てない。

その裏の美一つに賭ける命なのだ。

8月10日号

猛暑

猛暑〈2010年〉

猛暑

ああ暑い‼ 理屈もなしに只(ただ)暑い‼

近来気候が変ったか。昔は夏でも情緒があった。

戦後の夏は酷暑になった。否々(いやいや)熱暑や猛暑になった。

只々熱い、緑の山は炎の山だ。

入道雲や青空覗けば酷暑の象徴。

山も形も陽炎(かげろう)となって燃え上がる。

暑い!暑い‼猛暑を押える手立ても知らず。

9月10日号

残映

残映〈1988年〉

残映

九月ともなれば、流石に酷暑も柔らぎ、自然の息吹きを感ずる。

然(しか)しまだ、日中可成(かなり)の暑気を残しながら、鄙(ひな)里は

山髙く、四時ともなれば、陽は西山(せいざん)に落ち初(そ)める。

麓の里は、陰りの中に沈み、陰は対山の山肌を、峯に向って昇り急ぐ。

その時、陽は残映となって、対山を黄金色にして輝く。

その残映は、得も言えない、荘厳な輝きとなって四界に反映する。

残映愈々(いよいよ)去り、静暗漲(みなぎ)れば、自然も人も、平穏

の憩に入り、明日へのエネルギーを調える。

10月10日号

河岸秋光

河岸秋光〈2003年〉

河岸秋光

〇 見晴るかす酷暑の夏を生きつぎて

     河岸の草木は健気なりけり。

〇 近来(ちかごろ)の夏の猛暑は異状なり

     昔の夏は愉快なりしに。

〇 夏耐えて河原八千草逞ましく

     河岸一杯に花飾るらん。

〇 夕涼み河原に集(すだ)く秋虫の

     妙なるシンフォニー聞かまほしきに。

〇 ふるさとの秋づく河岸の恋しかり

     遠き地に住むわれに情(つれ)なし。

〇 ふるさとの春も夏をも又秋も

     雪降る冬さえ只(ただ)に恋しゝ。

11月10日号

賑秋

賑秋(しんしゅう)〈2001年〉

賑秋

〇 野も山も空地は尾花の咲くところ

    秋風吹けば少女歌劇か。

〇 気付きたる秋虫集(すだ)く庭隅に

    書見の耳をそば立てて見る。

〇 秋風のかろらに吹けば尾花叢(おばなむら)

    身振り顔振りいと賑やかに。

〇 秋風に雲も蜻蛉も杜さえも

    ハシャギてあれど静寂もまた。

〇 四方(よも)山の尾花が揺りて明るきに

    物かげ寒く暮るる淋しさ。

12月10日号

雪止む

雪止む〈2010年〉

雪止む

一本々々(いっぽんいっぽん)の杉は それ々々(ぞれ)独立している。

然(しか)しこの視界の杉達は絶対無限の妙用に

依(よ)って、この画面の中に一括(ひとくく)りになって、

この画面の必要条件を主張している。

春が来ようが秋が来ようが、

雨が降ろうが雪が降ろうが、

厳然として独立し、合同して

この絵の尊厳性、神秘性を担っている。

雪は先程止んだ。

人々はこの瞬間を如何(いか)に見るや。

平成25年

2月10日号

豪雪禍B

豪雪禍B(ごうせつか)

〈1981年〉

豪雪禍B

 杉は剛直に見えながら、其(そ)の生涯の内で樹令二十年過ぎ頃の杉は、

最も美麗であり、愛育者を喜ばせる生長期であるが、木質組織が

未熟である為に、殊(こと)に雪害に対しては最も弱い時期であって、

造林家を楽しませる時であるが、又、最も心配な時である。

 昭和55、56年の冬期、悪魔の如き強烈な寒波に襲われ、

わが美山町は稀有(けう)の大被害に遭った。その冬期中の或る日

降雪あり、そのまゝ気温低下し、雪は樹木に凍結、而(しか)もその夜

再び大雪となり、その雪の重圧に耐え兼ね殆(ほと)んどの杉は胴中から

折れたり、裂けたりの大被害となり、その傷口からは真赤な鮮血が

流れ、造林家自身が切られる思いに見えた程であった。その時ある

老人、その被害を見に急ぎわが山へ行ったところ、眼前の愛しき杉が

殆んど全滅して居る状態を見た瞬間、心は真白、為す術もなく、

どっと雪に腰を落し、男泣きに泣いてしまったとか。それ程の被害で

あり、世に五六豪雪と命名された程であった。

 茲(ここ)に唯一の画家は、この惨状を後世に残すべき責(せめ)を

感じ「豪雪禍A及びB」として二枚の油絵を描いた。本図はその内の

一なり。心し見ませ‼

3月10日号

鹿の子斑

鹿の子斑(かのこまだら)

〈2001年〉

鹿の子斑・・・弥生に

一、ふるさとの 周(めぐ)りの山の 愛しさよ

   鹿の子斑に 雪は消えつゝ。

二、南風(はえ)来らし 山の此方(こなた)は 雪解して

   今日川水の 濁り増しつゝ。

三、ねこやなぎ また冷たきを 雪解水

   増え来るなべに 浸り浸りす。

四、野も山も 空(むな)しと見えて 仲々に

   木の芽も 草も 動き初めつゝ。

4月10日号

春耕近し

春耕近し〈1992年〉

春耕近し

見晴るかす 鄙(ひな)の山峡(やまかい) 春なれや

 春暖仄仄(ほのぼの) 自然の 匂い

薄霞(うすがす)む 遠くの山も 大方は

 吹き出る萠(もえ)に 山笑うなる

媼(おうな)たち 山菜穫りに 勢出せば

 男の子追々 春田耕す

春河の 雪解の水も 日毎(ひごと)増え

 田植の準備も 悠々終り

今(こ)の年の 幸を担いて 揚々と

 気負いに満ちて 出で立つ春よ 

5月10日号

柔和な春

柔和な春〈2010年〉

柔和な春

一、萠芽(ほうが)過ぎ 続く一時の 春の間を

   柔和な春と 人の見るなる。

一、春空も 空気も人も 物皆も

   理(ことわり)なくに 「麗(うら)ら」「広ら」に。

一、静けくば 物言う者も なきながら

   奥に潜める 物の大きさ。

一、現世の 斯(か)くもありたし 今の世は

   あまりに憂きの 多きに過ぎれば。

一、春嶺の「麗」そのまゝ 歌いけり

   福井「ふくい」誌に 掲載せんと。

6月10日号

新河原橋

新河原橋(しんこうばらばし)

〈2008年〉

「新河原橋」に思う

 大正四年(1915年)、私が小学一年生の時、現在の橋の所は吊り橋

だった。

 その年の冬は大雪で、その吊り橋が登校する児童らの重みが加わって

一方に傾斜し、子供達は橋のロープに獅噛(しが)み付き、落ちた者は

無くて、皆、大変な命拾いをした。

 又、その冬の大雪で、西河原の後の山が大雪崩を起し、足羽川を

ダムにしてしまい、筏(いかだ)で川を渡して貰って帰った。

 昭和七年に起工し、翌八年八月完成で吊り橋はセメント造りの、

足羽川随一の立派な橋に改まった。

 鯖江三十六聯隊(れんたい)は、大野の奥、六呂師髙原を演習場に

して居たので、大野鯖江線として軍用道路を作り、橋も立派な

セメント橋にした。

 私もこの橋の完成前に画家修業の為通って郷里を離れた記念の橋で

ある。

 現在残って居る一本の橋脚が頑丈なことに就いては、軍用道路工事中、

私が施工側に、この川底は大きな一枚岩盤だから、そこまで掘って

取り付けて欲しいと、強く要望した為であったが、それを関係部署が

聞き入れた寛容さは実に素晴らしかったと思う。

 福井豪雨後、更に二年余、例の橋脚を中心に今の橋が完成した。

この橋の完成も容易ではなかった。今後又如何なる運命を辿るやら‼

7月10日号

梅雨上がる川

梅雨上がる川(福井豪雨2日前)

〈2004年〉

梅雨上がる(豪雨二日前)

梅雨上がる、自然は緑一っ杯。

然(さ)るを何?濁流逆巻く泥水の無気味さ。

画家は予兆を感じ、直ちに描く。

その後二日目の未明、

風光明媚、幽邃絶倫(ゆうすいぜつりん)の芸術境は、

須臾(しゅゆ)にして惨酷世界と化す。

その惨、将に、知る人ぞ知る。

然れど、今は昔、自然も人も、悠久の

歴史を繰り返し、運命の命を護り継ぐ。

永久(とわ)に、又、永久に‼

8月10日号

夏

夏〈1989年〉

田舎はと 思うは知らぬ 人が言う

福井の夏は 蒸し暑い

物を言っても 汗が出る

物を言ぬに 汗が出る

だんまりごっこの この暑さ

今年は 特に暑いと 言ったっけ

去年も 今年はと 言ったっけ

夏は毎年 暑いのよ

だからサマー タイムと 人は言う

神頼み したってどうにも なりはせぬ

じっと 我慢の 子になって

まてば そのうち 秋が来るはさ

9月10日号

秋深し

秋深し〈2001年〉

秋深し

〇 里山の 雪解の水は 冷たくも

     心し作る 苗代なるぞ

〇 お日和は 固き田起し 汗みどろ

     豊年見越し 心は勇む

〇 秋づけば 早も瑞穂は ゆたゆたに

     祈り来したる 励みの褒美

〇 お日様よ 水よ田ん圃よ 有りがとう

     恵のお米 沢沢沢に

〇 秋弥弥(あきいよいよ) 深まり行けど 憂いなし

     吾は農夫よ 米はお任せ

10月10日号

秋光

秋光〈1999年〉

秋光

秋来らし 爽やかな 初秋の息吹き、

心静かに 詳(つぶ)さに見れば、

一入深き 樹木の陰は、夏の名残か なお断ち難し。

自然の営み 四方に渡れば、

諸木諸草 秋の装い。

画面手前の 草のシルエット、靡(なび)くは人の 思惑越えて、

厳しき輪廻の 道標(みちしるべ)。

11月10日号

神杜寂秋

神杜寂秋〈2001年〉

神杜寂秋

村の表の宮居の 森も

夏の酷暑を 難なく越えて

氏子を守り、尚、悠然と

気負う 姿の 逞(たくま)しさ

これぞ民護(まも)る 神の御魂(みたま)の

お在(わ)す貴き 御座(みくら)なり

搗加(かててくわえて) この静寂の 弥深く

嵩高(すうこう)、平安、浩然たり

薄(すゝき)も既に 夜の憩の

装い急ぐ

民よ、氏子よ、喜ぶべしや

神の護りを 賴(たよ)り賴れや

12月10日号

雪止む

雪止む〈2011年〉

雪止む

〇音もなく 夜来(よらい)の雪の 止みたれば

    万象(ものみな)黙し 霊気漂(ただ)よう

〇雪止みて 万象域を 異にする

    自然の技の 鮮やけきかな

〇雪止みて この大らけき 浩然さ

    この一時を 吾が好むなる

〇雪止みて この静寂を 現世(うつつよ)に

    替えたく思う 蓋(けだ)し只(ただ)夢

〇年々(としどし)に 小雪・豪雪 交々(こもごも)す

    己が心も 斯くはあらまし

〇ふるさとの 雪暖かく 柔らかし

    福井の雪は 湿気髙きに

平成26年

2月10日号

雪降る

雪降る〈2010年〉

雪降る

 雪と人間との係り合う事件は、生涯中には枚挙に暇(いとま)がない。

その喜怒哀楽の機微に触れて100歳を越えた身には、手帖にあるだけ

でも、本欄で書き切れる位の事ではない。

 そこで現在、筆先に浮かぶもの数種のみ書いて見ることにする。

〇昨夜来、一入(ひとしお)寒波厳しくて

    朝(あした)は淡く 雪見ゆるなる

〇牡丹雪 しき降る中を 色雨具

    着けし学童ら 一群(ひとむれ)帰り来

〇乙女子の肌(はだえ)の如き 新雪は

    そとしおかまし 清きそがまゝ

〇陽に映ゆる 柔(やわ)く清らな 新雪は

    惜しみおしみて 踏むべかりけり

〇雪の夜半(よわ) たしかに行くよ 雪霊の

    誘うが如く わが前をゆく

3月10日号

村の入口

村の入口〈1991年〉

村の入口

 向うは隣村の入口である。私の母の生家の村だ。私等(わたしら)子供の

時は此処(ここ)へ遊びに来ては育った懐(なつか)しい村だ。何の変哲も

ない山間僻地の閑村だ。

 その静寂で、平和な村は、私の故郷と同様、日本農村の標本の様な村

だった。そこで育った私の故郷賛歌の一首に「住む民の 心の色を

香(にお)うらん 山も川はも清(すが)しばかりに」と云うのがある。

 それは日本人の特権ともする高潔、謙虚を守り、平凡の中に厳存する

真理を求めて、生涯の信条として生き貫き、故郷文化発展に献身すること

を盟(ちか)って画道一筋に精進して居る。

 之が私の絵なのだ。

 それこそが世界随一の絵だと思って‼

4月10日号

早春

早春〈2008年〉

早春

一、目覚むれば 外面を走る 車たち

    音軽ろらなり 日和なるらし

二、くだかけも 山寺(さんじ)の鐘も もう鳴った

    人も生活(たつき)の 道に速(と)く着け

三、わが故郷(さと)は 唯一無二の 風光明媚

    幽邃絶倫(ゆうすいぜつりん)の 芸術境なる

四、春弥生 今日暖かく 若芽萠え

    目路の限りは 山笑いつゝ

五、故郷(ふるさと)の 巡りの山嶺 今日晴れて

    遠方此方山菜(おちこちもの) 採り弥(いや)走る

六、あの嶺の 眉(まぶ)の辺りは 薇(ぜんまい)多く

    こちら日当りは 蕨叢(わらびむら)なる

七、この山は 山菜多し 若きば急げ

    老は筵(むしろ)で 急ぎ乾かせ

5月10日号

挿秧

挿秧(そうおう)〈1986年〉

挿秧

一、挿田女の 影もしるけき 五月晴

    遠くほろほろ 鳩も鳴きつゝ

一、いま植ゆる 早苗に祈る 念々は

    瑞穂・垂り穂の 黄金波なる

一、たゞ一人 田植えして居る 麗かさ

    長閑(のどか)、ゆったり 現在(いま)の春はも

(何にしても、現代の田植えは、全(す)べて機械化になり、

 田拵(たごしら)えから植付まで昔日(せきじつ)の様な、

 協同方式の、大田植は見られなくなってしまって、何か

 情緒不足の感情が残る。)

6月10日号

山寺碧天

山寺碧天〈1992年〉

山寺碧天

初春の百緑から美しく、優しく、神々しく変化していた緑は、

  農家の田植が終(おわ)った頃からは、愈々(いよいよ)、

  本格的緑の貫禄期に入り、四界は総て緑一色が他に君臨

  するのである。

殊(こと)に緑は色の中では最も平和的性格である為、此(こ)の

  風景にしても平安・平穏、静寂等の感情が漲(みなぎ)っている。

人はその中で山寺朝暮(さんじちょうぼ)の凡鐘を合図に、昼は

  生業に勤しみ、夜は休息、信仰そして夢や希望を抱いて努力する、

  年中最良の季である。

7月10日号

合歓咲く頃

合歓咲く頃(ねむさくころ)

〈1989年〉

合歓咲く頃

〇 この年も 合歓の花時 鮎解禁

   自然の業(わざ)の たがわざるなる。

〇 合歓の花 桜がほどに 言わざるも

   ことにその紅 愛しかりけり。

〇 水無月と 昔名づけし 六月は

   合歓咲く下を 鮎子飛び交(こ)う。

〇 濃緑の 重き景色の 中にして

   川辺の合歓は 季(とき)の賑わい。

〇 生業の 人は詮なく ありつれど

   慰安の人は 鮎に謝すべし。

〇 合歓の花 今を盛りと 咲くはなに

   釣らるゝ鮎の 弔花ならずや。

8月10日号

夏

夏〈1990年〉

(狂歌) 

夏‼ 諸木諸草(もろきもろくさ)、緑一色

   色を少なみ 一入(ひとしお)暑し。

大荒(おおあれ)の梅雨を送りて

   湿気漲(みなぎ)り、 汗みどろ。

今は昔、子供は赤銅(しゃくどう)、川遊び

   日なが一日、カッパの子。

水は透明、真澄み澄みたる

   今世の子供は、汚水のプール。

大人は放流の ひ弱な鮎子

   昔は尺余の 大鮎沢々々(さわさわさわ)に。

見たかろう大鮎、でも恨まれな

   今の鮎釣りも、夏の風物詩なる。

9月10日号

初秋の閑村

初秋の閑村〈1991年〉

初秋の閑村

 変哲もなきこの風景を、人は「何と見るにや」。恐らく「悠揚迫らぬ、

この静寂さ、この平穏さ」と見るならむ。

 私は古里の自然を、「風光明媚、幽邃絶倫の芸術境」と誇っている。

 それを「絶体無限の妙用として」尊敬し、感謝している。

 さりながら、自然は時折歴史を覆し、天変地変を誘発する。

 その原因は、人間の無謀な作為からであることを反省すべきである。

 人間よ‼自然を護れ、自然は人間の暴挙を耐えて、密かに嗚咽して

いるのだ‼

10月10日号

鄙の秋

鄙の秋(山村の秋)〈1990年〉

鄙の秋

 この絵は、一年の生業を完了して、冬を待つ、静かな風景である。

 何の変哲もなき山峡(やまかい)の、自然の中に住んで居ると、芸術の

気配など全く感じられないだろうと、人は思うだろう。

 然(しか)し私は却って、都会の喧噪(けんそう)の中で、人々が

犇(ひし)めいて居る状態を思うと、凡(おおよ)そ芸術とは縁遠いのでは

ないかと思われる。

 寧(むし)ろ、都会の騒音を避けて、独り自然を大先生にして対峙して

居ると、誰に衒(たら)うこともなく、美術界の情実からも逃れ、

清冽(せいれつ)なまで孤髙を保ち、左見右見(とみこうみ)せず、

只管(ただひたすら)、わが道を堅持することは、最も難業道ではあるが、

本当の芸術境としての誇りさえ感ずる。

 そして辺鄙(ひんぴ)な山峡の自然が、寸時も休むことなく美しく変化

する中で、諸々の物象に、色々な人間のロマンを重ねて見たり、際限なき

モチーフを選んで描く身の幸福感は、地方作家の特権ではないだろうか。

11月10日号

川辺の秋

川辺の秋〈1991年〉

川辺の秋

 この風景の大木は、私が従農時代に、父と河原に植えた団栗(どんぐり)

の木である。

 石を除けて植穴を作った。

 雇ひの婆さんと私と近くで同じ仕事をして居たが、そのうち婆さんは、

うっかり石を私の方へ投げた。それが私の頭(こうべ)の右角へ当り、

私はくらくらと目舞がし、傷が出来て血が流れた。

 「小児の傷」として、生涯の懐(なつか)しい思い出でなった。

 その後団栗は七十年間、私の絵のモデルとなって尽(つく)して呉れた。

処(ところ)が今から十年前の「福井豪雨」で根刮(ねこそ)ぎ流されて行方

知らず。「盛者必衰」「生者必滅」を思い、「絶対無限の妙用」の真理を

知覚する時、私自身の往時を顧みて、只々(たゞただ)感謝あるのみ。

12月10日号

静寂

静寂〈2009年〉

静寂

「静寂」とは、大方の字典に「静かにして寂しいこと」と解説してある。

それは「負」への志向であるが、私は韻体志向を感じて居る。

「負」の志向を感ずるのは、或は、発音の負志向に誘導されるからかも

知れない。

「韻文」は詞歌(しいか)を踏えて居るので、私は寧(むし)ろ、芸術心を

楚々られて居る。

殊(こと)にそれが「わび」「さび」まで志向を進めれば、「静寂」は、

将に、芸術境を表現していることになる。

この杜を私は、そんな思いで描いた。

扨(さて)、皆さんは如何(いか)にか?

平成27年

2月10日号

小杉叢

小杉叢(こすぎむら)

〈2007年〉

小杉叢

 山の爺さん杉植に、不出来な苗とて五、六本、苗の田圃に残して

行った。

 それから三年ばかり経った時、一人の画家が通ったら、苗はぐん々々

勢い付いて、何(いづ)れ劣らぬ美しさ。

 画家は筆執るに吝(やぶさ)かならず、須臾(しゅゆ)に画面は画稿で

きまる。

 人や知る‼天に至って、尚、屈せずと云う杉巨木。これに対する

不出来の苗も、地の利を得れば千古に誇る喬木(きょうぼく)に成り得る

ことを。

 これ絶対無限の妙用に因(よ)ってなり。

 思うべし。人間も、生きとし生ける物みんな、絶対無限の掌中にある

ことを‼

 生死(しょうじ)の不思議、思えば深く、又快なり。 

3月10日号

残雪の頃

残雪の頃〈1982年〉

残雪の頃

 春にして、此処(ここ)は山家の、その又山峡の一画で、春暖来り、

残雪とは名ばかり、雪も少なし。

 さはさりながら、少なき雪は、少なき程が、却って哀感深く、

韻文めきて好ましし。さればか否かわかねども、眼前賑わす杉紅葉。

小群団でありながら、絢爛豪華(けんらんごうか)な鮮かさ。

 さるをいざ、小さき群団と眺めしに、視界を伸ばせばなかなかに、

見晴るかす、目路の限りは陽春の晴着に替えて春は酣(たけなは)。

 思うに自然は、いみじくも「山笑う」の季なりけり。山全体が

絢爛豪華の宴の最中。この時画家は陽春饗宴の坩堝(るつぼ)に

嵌(はま)り込み、狂人の如く、一心不乱に描き捲ったことを感じながら

頑張ったと思う。

4月10日号

春の村里

春の村里〈1992年〉

春の村里

 この絵は山間僻地(へきち)の一閑村の風景である。只(ただ)、

この風景に感興をそそられるのは、自然生成の風景ならば、

大抵の集落は、この風景の様な小区域に集るのでなく、もっと広範囲に長く、

広くなるのが普通だと思われるのに、この村の場合は、意識的・計画的に

構築したのかと思われる程小規模に集り、美術的にも、感情的にも、

可成(かなり)の美の要素を感じさせるものがあったりするので、この村の

生成の記念的・歴史的方面への参考にと思って、絵画的に描いて置いたの

である。

 そうした意味から考えると、美的方面以外のジャンルからも研究を

進めたならば、人間文化進展の面からでも、今後際限なく問題は出て来る

のではなかろうか?

 蛇足ながら、そんな事は一芸術家位が考えなくても、住民一人々々が

考えなくてはならない問題であるかも…ね。呵々……。

5月10日号

萌春

萌春(ほうしゅん)〈1989年〉

萠春

● 南風来らし 山の此方(こなた)は 雪解して

   今日川水の 濁り増しつゝ。

● ふる郷の 巡りの山の 愛(かな)しさよ

   鹿の子斑(まだら)に 雪は消えつつ。

● 猫柳 まだ冷たきを 雪解水

   増え来るなべに 浸り浸りす。

● 見るからに 心ひろらに なる思い

   黄金銀金(こがねしろがね)に 輝よう景色。

● 挿田女(そうため)の影も知るけき 五月晴れ

   遠くほろほろ 鳩も鳴きつゝ。

6月10日号

新緑の嶺

新緑の嶺〈1992年〉

新緑の嶺

 得てして、物が新しくなるということは素晴しいことである。

 田植えも過ぎ、夏に入った頃の緑は、実に物が大きく見えるものだ。

 一年中で一番洗練されているのではなかろうか。

 この絵の場合、山容自態、覇者の如く、余力の勢いを感じさせ、

諸木諸草(しょぼくもろくさ)もこれに遅れじと周囲の緑の大シンフォニー

に参加している。

 而(しか)も、画面、右角の鮮やかな紫の桐の花々はその指揮者達

ならむ。

 因(ちな)みにこの絵は、若年の時、京都武徳殿に於(おい)て、

閑院の宮の御前試合にでて、小兵には身に余る大男と戦う様になり、

大男の透(すき)を狙って巴(ともえ)投げをかけ、相手が術に嵌(はま)って

落ちて行った時の壮快な気分を思い出させてくれる、忘れられない作品

である。

7月10日号

静なる河岸

静なる河岸〈1994年〉

愛読者に謝す

 「ふくい」誌七月号は筆者に急用出来(しゅったい)し、執筆出来ず、

烏滸(おこ)がましきことながら作者作ふる里賛歌と類例することを

お許し願いたし。

一、わが里は 深山(みやま)の奥ゆ さみしらに

   人こそ思え 吾(われ)に愛しし

二、現世(うつつよ)の おろかにもがも さりながら

   たゞふるさとを 恋つろ吾(あ)がも

三、とりよろう 緑の山は 生(あ)れしより

   父母とし友とし 吾に愛しし

四、住む民の 心の色を 香(にお)うらん

   川も山はも 清(すが)しばかりに

五、生かされて 来つつ思えば かにかくに

   ふる里なくに 吾(わ)が在らめやも

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