ホーム 観光・文化・イベント文化文化・芸術施設【おさごえ民家園】旧城地家住宅と昔の暮らしの特色

最終更新日:2012年4月1日

【おさごえ民家園】旧城地家住宅と昔の暮らしの特色


概要

  • 旧城地家住宅外観名称:旧城地家住宅
  • 指定:福井市指定文化財
  • 建築年代:嘉永5年(西暦1852年)
  • 旧所在地:大野市蕨生(わらびょう)

この住宅は、今からおよそ150年前の幕末に、当時の大野郡蕨生村、現在の大野市蕨生に建てられたものです。昭和の終り頃に、福井市が城地京示氏から譲り受け、昭和60年に解体し、同62年に移築・復原しています。

建築の特徴

解体の折に、中柱の丑梁(うしばり)を受けるほぞ穴の脇から墨書が発見されました。それによると、嘉永5年、野中村の棟梁大久保源次郎らによって建てられたことがわかります。
茅葺の入母屋造り(いりもやづくり)で、左右につのやを付した堂々たる民家です。雪深い土地にふさわしく屋根の勾配は急で、破風(はふ)周りにも特に装飾はありません。間取りは妻入りで福井県嶺北地方の中央部に分布する型で、旧梅田家住宅などと同じですが、にわが奥まで入り込んで、部屋まわりと食い違っているところに奥越地方の特色が表れています。移築前にでのまと呼ばれていたこの部分は、だいどころしきだいの中間の高さに床がはってありましたが、右側の開口部の敷居が低く、かつ、両脇の柱には框(かまち)の痕跡がないなどの理由から土間として復原されました。
ほんざしきは12畳半もあり、背後の庭園に面するよう横向きに配置されています。ぶつましきだいとも10畳で、どの部屋も大振りです。しきだいから上がった大切な客人は、ぶつまを経てほんざしきに通されました。へやおいえは家族用に造られ、ほんざしきしきだいとは板戸で仕切られています。床の間の背後にある2つの上便所は、それぞれ客用と家族用の専用になっています。ぶつまの背後にはうしろどと称する5畳間がありましたが、痕跡に基づいて縁と湯殿と便所に復原されました。間取りの規模相応に、柱や梁は太く、がっしりした造りになっています。欅(けやき)の中柱は太さが1尺2寸角もあり、上屋の梁間は4間と、福井県内の古民家としては最大級の規模を誇っています。旧城地家住宅平面図

旧城地家住宅での生活と越前地方の古民家の特徴

旧城地家住宅平面図

旧城地家住宅の生活と越前地方の古民家の特徴について、以下の箇条書きの順で説明します。
部屋の名称・位置は適宜、右の平面図で御確認ください。図はクリックすると拡大します。

庄屋さんについて

この家は、とても大きな庄屋さんの家です。庄屋さんは村の代表者で主な仕事としては、年貢(税金)の負担方法を決めたり、田んぼの水路工事などの監督を行いました。また、村の中の土地の管理や村人の生活を守っていました。
そのため庄屋さんは、村人に人望があり、且つ読み書きや算数ができる知識人でもありました。そして、この庄屋さんの家には、これらの仕事を手伝ってくれる使用人が男女合わせて10人程いました。男性は「うまや」の上で、女性は「だいどころ」の上の中2階で寝起きをしていました。園内の民家はすべてそのような形になっていますが、この古民家は県内で最も大きな規模・構えになっています。

家の特徴と柱

大野市は雪が多いため柱が大変太いです。また、屋根に雪が積もらないよう傾きが急であったり、雪に埋もれないよう軒が高くなっています。それに対して隣の岡本家は、嶺南地方で雪が少ない為、柱は細く軒も低いです。

にわとその周辺

玄関から入ったすぐのところを「にわ」といいます。この場所は、土に石灰を混ぜて叩いて固めた土間になっています。ここで、収穫してきた籾米(もみまい)を玄米と籾がらに分ける籾すり作業などを行いました。また、刈り取った稲の茎を干すと「わら」になりますが、その「わら」を「にわ」のちょうば石の上で打って柔らかくし、「だいどころ」で縄をなったり、草履や蓑などを編んでいました。
また、「にわ」の地下には、「イモあな」といって野菜の収蔵庫があり、天然の冷蔵庫の役割をしていました。天井には種もみ(春先に田んぼに捲く種)が吊るしてあり、そこにはネズミが降りてきて食べられないように工夫がなされていました。また、「にわ」の上の中2階には「つし」があり、茅やわら、たきぎ等をしまっていました。
入り口には、「うまや」があり、牛馬が飼われていました。牛馬は農作業に欠かせないため大切にされ、家の中の日当たりの良い場所に飼われていました。

だいどころといろり

城地家があった大野市周辺では、「だいどころ」と言いますが、地域によって「おい」や「おいえ」とも言います。蓑などの雨具や、草履やわらじを編んだり、綿や麻から糸を作り布を仕立てていました。「だいどころ」には「いろり」があり、食事の煮炊きをしたり、一緒に食事をするなど家族の団らんの場でありました。

いろり廻りの座る場所について

昔は、いろり廻りの座る場所が厳しく決められていました。旧城地家住宅のイロリ
「ざしき」側をヨコザといい、一家の主人であるお父さんが座りました。
ヨコザの右側をナベザと言いお母さんが、ヨコザの正面をヒタキザと言いおじいさんとおばあさんが、ヨコザの左側をシモザと言い子どもが座りました。

ながしと風呂

ながし

水道のなかった時代、家の中の井戸を利用したり、川の水を汲んで水がめに溜めて洗いものを行っていました。なお、旧城地家のように山間部の家では、竹のといで山水を家の中に引き込み、「ながし」の石舟に溜めて使いました。洗濯は「ながし」でも行われていましたが、戸外の井戸端や川辺の洗い場でも行っていました。

風呂

風呂場を仕切ってある家はほとんどありませんでした。体は風呂桶の中で洗いました。夏は、たらいを「ながし」の隅に置いて行水をしていました。

ざしき

役人や特別なお客さんが「しきだい」から家の中に入り、「ぶつま」を通って「ざしき」に入り、話し合いをしました。城地家では、「ざしき」のことを「ほんざしき」といい、畳12畳半もあり、当時このような広いざしきはめったにありませんでした。
ところで、「ほんざしき」と「へや」の間の襖(ふすま)には、取っ手がありません。その理由は、「へや」と「おいえ」は家族が寝起きをしていた場所なので、「ほんざしき」からは開けられないようにするためでした。

ぶつま

役人や特別なお客さんが「しきだい」から家の中に入り、「ぶつま」を通って「ざしき」に入り、話し合いをしました。城地家では、「ざしき」のことを「ほんざしき」といい、畳12畳半もあり、当時このような広いざしきはめったにありませんでした。
ところで、「ほんざしき」と「へや」の間の襖(ふすま)には、取っ手がありません。その理由は、「へや」と「おいえ」は家族が寝起きをしていた場所なので、「ほんざしき」からは開けられないようにするためでした。

しきだい

縁側には「しきだい」があり大切なお客さんは、ここから入り、この部屋でお茶を出されて休憩しました。その後、「ぶつま」を通って「ほんざしき」に入り、話し合いをしました。

便所と肥料について

便所について

越前地方では、「ほんざしき」と「ぶつま」の裏にある便所を上便所と言い、お坊さんやお客さん専用に使われていました。家族や使用人は、入り口脇にある下便所を使用しました。また、下便所は、人糞を肥料として使用したため汲み取りやすい所、更に屋外作業や「にわ」での仕事時に使用しやすい所に設けられました。

肥料について

農家では肥料は大切なものの一つでした。人糞、牛馬の糞尿で汚れたわら、灰や洗いものをした後の水など様々なものを肥料に使いました。「肥料を使って食物を栽培し、その食物を食べてまた肥料が出来る。」といった循環がありました。先人はこのようなエコ生活を送っていました。 

お問い合わせ先

教育委員会事務局 おさごえ民家園
電話番号 0776-34-3794ファクス番号 0776-34-3794
〒918-8011 福井市月見5丁目4番48号 【GoogleMap】
業務時間 8時30分から17時15分 【開園時間】9時から17時15分(入園は16時45分まで) 【休館日】月曜日(月曜が祝日の場合は翌日)、祝日の翌日(但し、翌日が土・日曜日の場合は開園)、年末年始(12月28日から1月4日)

メールでのお問い合わせはこちら

ページ番号:012624