市の位置・人口と沿革

最終更新日 2017年4月2日 印刷

位置と面積

福井市の位置図

  • 東経 136°13’10” 
  • 北緯 36°3’51” 
  • 面積 536.41平方キロメートル 

(平成27年10月1日現在 国土地理院から)

人口

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沿革

福井市は、九頭竜、足羽、日野の三大河川により形成された福井平野に発達してきました。福井平野は、約3000年前の縄文時代後期から晩期にかけて、河川活動によって形成された沖積平野で、弥生時代には、既に一部で農耕も可能になっていたといわれています。

そして、約1250年前の奈良時代には、この広大な平野が、穀倉地として注目され、東大寺の荘園である道守荘や糞置庄などが開かれています。その後も地勢的関係から、北陸道の要衝として栄えました。

中世には、現市街地の南東にある一乗谷に居を構えた朝倉氏が5代103年間にわたり、戦国大名として広大な地域を支配しました。当時の一乗谷は小京都と呼ばれるほどの栄華を極めたといわれていますが、その城下町は、天正元年に焼失したままの姿を今日までも残し、日本中世史上きわめて貴重な遣跡として、昭和46年7月には国の特別史跡、平成3年にはその庭園が特別名勝、平成19年には出土品が重要文化財の指定を受け、国の三重指定(特別史跡・特別名勝・重要文化財)となりました。

市の中心部は、室町時代のころには北庄(きたのしょう)と呼ばれ、本格的なまちづくりの始まりは柴田勝家によるものといわれています。その後は、丹羽長秀、堀秀政らがこの地の城主になりました。

徳川家康の天下平定後は、その次男、結城秀康が68万石の城主として慶長5年(1600)に入封しました。福井の地名については、3代藩主忠昌のとき北庄から福居となり、のちに福井と改められました。幕末の藩主は、明君のほまれ高い松平春嶽(慶永)で、その治下から、橋本左内、由利公正、橘曙覧、笠原白翁など幾多の人材が輩出されました。

明治22年には市制が施行され、福井市となりました。当時の人口は、3万9863人、面積は、4.43平方キロメートルでした。

以来、福井県において政治、経済、文化の中心都市として発展を続けてきています。その間、昭和20年7月の空襲、昭和23年6月の福井大震災など、数度にわたって壊滅的な打撃を受けましたが、市民の不屈の精神によって今日の『不死鳥のまち福井』を築き上げてきました。また、平成12年11月には特例市に移行し、平成18年2月1日には、隣接する美山町、越廼村、清水町の3町村と合併しました。現在、地域の特色を生かしながら日本海側の主要都市としてまちづくりを進めています。