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最終更新日:2010年10月18日
福井藩十二カ月年中行事絵巻壁画
福井藩十二カ月年中行事絵巻とは
江戸時代福井城下の月ごとの代表的行事や風物を、軽快な筆致で描いたもので、そのほとんどの行事が廃絶した今日となっては、きわめて貴重な資料です。
筆者は不詳ですが、「松平文庫」に蔵する「越前国名蹟考」原本の挿絵と、構図・筆致とも酷似したものが含まれていることから、福井藩居合の師範家で狂画を得意とした高畠夢蝶の筆ではないかと推定されます。
福井藩十二カ月年中行事絵巻壁画
「正月十四日桜門前馬威しの図」
「二月廿日三保嶋祭礼の図」
三保嶋とは、日本海に面した東尋坊の北にある雄島のことで、ここに鎮まる大湊神社が、三保大明神とも呼ばれたため、この島の名が生じました。大湊神社は、古くから航海や漁業の守り神で、外国から攻めてくる軍船などを打ち負かす弓矢の神としても信仰をあつめてきました。2月20日の祭礼には、多くの参詣者が雄島を訪れました。 |
「三月 九十九橋桃花の図」
「四月 足羽川筏流しの図」
筏流しは、燃料に使う大量の薪を山間部から福井城下に運び入れるために考え出されました。 城下を流れる足羽川の上流に住む山里の人々は、4・5月と9月の2度にわけて、囲炉裏やかまどの薪として集めておいた木の枝を、筏に組んで川へ流しました。 下流の福井城下では、城の橋から九十九橋へかけての南岸一帯で、これらの筏を待ち受け、河原に引上げて乾燥させたのち、武士や庶民へ売りさばきました。 |
「五月 菖蒲打の図」
5月5日は端午の節句で、福井城下では菖蒲打と呼ばれる少し変わった風習が行われました。 菖蒲打といえば、一般には子どもたちが菖蒲の葉で地面をたたき合い、音の大きさを競う遊びです。しかし福井では、棒のように太く束ねた菖蒲の葉を「祝いの菖蒲」と名付け、通行中の女性の尻を打ってまわったのです。これは、古くからの武家の風習だったようです。 |
「六月 祇園祭りの図」
江戸時代、福井城下の祭礼として最も盛んだったのは、6月7日から14日にかけて行われた祇園祭でした。 |
「七月 盆踊りの図」
福井城下では、祖先の霊を迎える盂蘭盆を中心に、連日連夜の盆踊りが行われ、半月以上にわたって賑わいを見せました。 寛文12年(1672)頃では、足羽川沿いの浜町河原や勝見河原、木田口広場、四井口広場などに大勢の人々が集まり、徹夜で踊りを楽しみました。 藩では、踊りを中止するなどの規制をしましたが、その勢いは止められず、のちには西瓜や寿司などを売る夜店も出て、一層盛んになりました。 |
「八月 鮎梁落の図」
おもな川では、8月になると産卵のために川を下ってくる落鮎をねらって、梁漁が行われました。 せき止めた川の一か所に水路を作り、その狭くなった所に竹やスノコの棚を仕かけ、流水とともに鮎をすくい取るものです。 この庶民による川漁は、秋になると見られる風物詩の一つでもありました。 |
「九月 加茂山坂鳥の図」
福井藩では、晩秋から翌年の春にかけて、田に水を溜めて広い人工の池を作り、そこに飛来する鴨や雁をY字形の投げ網でからめ取る、「坂鳥」「坂鳥打」と称する狩猟が盛んに行われました。 水鳥をおびき寄せるための池は、各所に設けられましたが、特に加茂山・山奥の猟場は藩が指定した坂鳥場とされ、多くの藩士に利用されました。 |
「十月 護摩堂紅葉の図」
福井城下の南西、愛宕山(現在の足羽山)の南東の麓にあった護摩堂谷一帯(現在の不動寺付近)は、壁のように切り立った岩に蔦のからまる、紅葉の名所として知られていました。
その季節になると、美しく見事な紅葉を一目見ようと、護摩堂へ参る人々で賑わいを見せました。 |
「十一月 献上寒鱈早駈の図」
福井藩主から将軍へ差し上げる、恒例の献上品の一つに、「御寒鱈」と称する、寒い時期に取れる新鮮な鱈がありました。 |
「十二月 舟橋雪景の図」
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