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最終更新日:2009年5月25日

清水地域の三留町の伝承


しみずっペディア 三留町の伝承

※概ね原本「清水町のむかしばなし」のとおりのため、「である」調で記載しています。


清水東地区 三留町(みとめちょう)


1.村のおいたち
三留(三留町)という区は三方村の前身的な意味をもつとともに、三留の郷のもとともなっているといわれている。
三方という言葉の発祥は、日野川、志津川、天王川の三つの川を中心とした流れが、一か所に集って、潟のようになっていた。それで三つの潟の村から、「三潟」と呼び、「三方」と宛字で書くようになったと言われている。
また古文書の中には「三溜」という字が所どころにみられる。これは、三つの川が集まった所の意味をあらわすものと思われる。
時代が流れ、河川の改修が行われて、湿地が乾地となり、何時の間にか「みため」が「みとめ」と訛って「三留」と宛字を書くようになった。
住みにくかった三留の地も、今まで山の上にいた人たちもだんだん下におり、また他の地方から移住してきだ人もあり、現在の住みよい村になった。
この三留に朝倉氏の一族が城をつくって、住んでいたので、今住んでいる人びとの中には、朝倉一族や、気比神社社司一族の血を引いているものも多いということである。


2.宝尾山の大蛇(ほうおさんのだいじゃ)
今でも窪坂(くぼさか)の上は、地熱が高く雪が早く消え、そこから窪坂へ流れる水道に泡が出ている。近ごろ三留区(三留町)の人で、大きな蛇をみたという人がいる。その人の話では、色は黒くその蛇の太さは十センチ位の大ききだという。その外この地には蛇がたいへん多いので、気をつけているといわれている。
これは、地熱が高いので蛇が住みやすいのではないかと思う。この山から流れ出る水は温かいので、稲がよく育つともいわれている。
村人はこの大蛇は、竹生の溜池の主ではないかといっておそれられていた。
明治の中ごろ大蛇の住むといわれる山地に、温泉を作ろうと、鉄杭を三本打ちこんだが、岩にあたって破れなかった。何とか温泉をと考えたが、資金がなく中止したという話が残っている。


3.三留の古墳
東小学校(清水東小学校)北側の山の尾根を少し登った所に、円墳二基がある。この古墳上に尾崎与右ェ門家の墓地がある。ここから急な山道を登った山の頂上に、立派な前方後方墳がある。長軸二十三メートル、墳丘二・七メートルの典型的な古墳である。古墳の前と後が方形になっている「前方後方墳」は珍しく、古墳時代前期の四世紀頃の豪族の墓と思われる。
なお、五位山の頂上に円墳があり、昔この古墳の上をならして、弥勒堂様の祭礼の時、角力や踊りが行われたと伝えられている。


4.みっしゃ堤と水争い
小羽山の北を流れる志津川が、三留(三留町)の稲葉山(気比神社の山)の近くで、直角に曲って竹生(竹生町)の方へ流れている。この曲り角の堤防を「みっしゃ堤」といい、大水のたび毎に堤防が切れたり、また、切り落したりして水げんかとなった。
大雨の時、志津川が先に満水になり、志津川の水が一応減水すると、今度は日野川の水が満水となり、三留、杉谷(清水杉谷町)が湖のようになる。この水は一方は片山排水路へ、一方はみっしゃ排水路により志津川へ排水されるが、日野川の水位は仲々下らないし、広大な杉谷、三留の沖田の水が、水位の低い志津川へ流れる。このため下天下(下天下町)、和田(和田町)、清水(清水町)の水田の水が何日も引かない訳である。
このような利害の相反する立場にあるため、水争いが絶えなかった。
江戸時代の記録によると。寛政三年、弘化二年、慶応二年に「みっしゃ堤切り落し」の大事件があった。
近くでは、昭和三十四年八月と九月に、台風十三号、十五号が襲って、災害救助法が出された。この時、みっしゃ堤で、双方の間で大騒動が起き、県警本部機動隊が出動し、仲介のため自民党視察団が来町するという大事件となった。


5.周辺

  • 下天下町、清水杉谷町、田尻栃谷町、竹生町、風巻町、小羽町
  • 清水東小学校、清水東公民館
  • 市指定文化財(史跡) 三留城跡

6.参考文献など

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