清水地域の大森町の伝承

最終更新日 2017年1月27日 印刷

しみずっペディア 大森町の伝承

※概ね原本「清水町のむかしばなし」のとおりのため、「である」調で記載しています。


清水西地区 大森町(おおもりちょう)


1.天目山城跡(てんもくやましろあと)と安野谷(あのたん)
 今から七百六十五年前、後鳥羽上皇は、鎌倉幕府が、上皇の言いつけを聞かないで、勝手に国を治めていたので、この幕府を亡ぼそうと、こっそり味方の武士を集められた。
 その時、藤原氏の子孫である、大森二郎時秀という侍もお味方につき、八年前から相撲を教えに、小森(おもり)から上皇に召し出されていた、小藤太の故郷、小森へ来て、天目山に城を造り、織田街道をまもった。
 その頃、岩坂の谷が高く、志津川の水がせきとめられ、大森(大森町)、山内(山内町)、滝波(滝波町)、本折(本折町)まで低い所は「志留湖(しどむこ)」という湖になっていた。
 天目山の東側の谷を城の大手(正門)とし、屋敷を構え、時秀は「安野(あんの)」と号していたので、この谷を安野谷(あのたん)と呼ぶようになった。この城は東南西は崖で湖に固まれ、北は山で守りやすい城であった。
 ところが幕府の北条義時に、上皇の計画を知らせた者があったので、義時は、東海道十万、中仙道五万、北陸の越前へは、北の越後(新潟)方面から、四万の大軍で、京都へ攻め上らせた。
 上皇の軍は皆合せでも二万余り、とても勝てる見込みがなかった。尾張・美濃・越前を守っていた者は皆負けて戦死するやら、京へ逃げていった。
 大森時秀も、城を捨て都へ退却した。その時三オの子どもを村の百姓の乳母にあずけ、形見の品を置いて行った。そして京都方面で戦死してしまった。
 あずけられた子は成長して、大森次郎時總(ときふさ)と名乗って次郎谷(西小校庭の所)に住んでいた。この人が大森家の先祖であるという。
 天目山城は、天日神社の後にあり、上が平で、さし渡し五十メートル位、東と南は崖で、西と北は少し低く、そこに二重の空堀(からぼり)がある。
 東の大手の谷は広く、元天台宗の善福寺があった所で、近くに「大門」「堂の上」等の地名が残っている。天日神社の所も城の出丸と思われる。
 賀茂山(かもやま)に大きい森があり、大森氏の城があったのでこの頃から「小森(おもり)」が、「大森(おおもり)」にかわったように思われる。


2.堂奇(どうだん)と引接寺(いんじょうじ)
 大森区(大森町)の南、山内川の向うの山内(山内町)境に低い杉木立の丘に固まれた谷がある。これを堂谷といっている。
 今から約五百年前(長享二年)天台宗坂本の西教寺住職、真盛(しんせい)上人が、越前へ布教に来られ、武生のお総社(そんじゃ)の後へ引接寺(いんじょうじ)を建てた。
 時の越前の殿様、朝倉貞景が、このお坊さんを一乗谷へ呼んで教えをきき、貞景の弟が弟子となり真慶(しんけい)といって修行をして、引接寺二代自の住職を継いだ。
 真慶上人は、一乗谷の西、西大味(西大味町)へ新らたに分寺の引接寺を建て、開山となった。
 それから八十五年後、天正元年八月、朝倉義景が織田信長に攻められ、一乗谷から大野へ逃げて自殺した。その時西大味の引接寺も焼かれ、住職の祐元(ゆうげん)上人が、大森の同行をたよって、御本尊(阿弥陀様)を背負って逃げて来られた。
 大森の同行の世話で、この堂谷に小さいお堂を建て御本尊を安置した。そして二十四年後の慶長二年にやっと立派な引接寺のお堂が建てられた。
 慶長十二年、住職浄賢(じょうけん)上人の時、真宗大谷派に改宗した。それから百二十四年、享保十六年五月十六日、引接寺が火事で焼けてしまった。
 そこで同行と相談して、堂谷から現在地へ移って寺を再建した。天正元年から享保十六年まで百五十 八年間この堂谷に引接寺があったわけである。


3.岩坂(いわさか)の天満宮(てんまんぐう)
 岩坂の南の崖の上を天神山という。その頂上に天満宮の小社がある。大森家の氏神で、安政五年(一八五八)に、京都北野の天神様の分霊を、大森家の歌人、蕃立(ばんりゅう)氏がお受けして来てお祭りした神社である。
 その二年後、兵庫県の月照寺から、奈良時代の歌人、柿本人麻呂の像をお受けして来て、道真公といっしょにお祭りした。
 お宮の入り口には、天神様のお使いの座った牛が置いてある。大正の頃の一年生の遠足にはいつも、遠路見(とおろみ)へ行く道の方から登ってお参りしたものである。


4.万鍛治兼則(かたなかじかねのり)
 今から四百五十年ほど前、美濃(岐阜県)関の名高い刀鍛治兼法(後兼則)が越前一乗谷の朝倉義景の城下へ来て万を造っていた。
 その弟子の兼則という、上手な万鍛治が大森(大森町)へ来て万を造った。「大森打(おおもりうち)」と言って名が高かった。しかしその万はあまり残っていない。子孫は明治頃まで志津氏を名乗って、仕事をしていたが、今はいない。


5.親切な巡礼(じゅんれい)さん
 西小学校(清水西小学校)のプールの所から、大森(大森町)側へおりると、そこに大きい石碑が、お堂の中にある。
 ここは大森の旧道で、西小学校が焼ける前まで、ここから学校へ上る石段があった。
 この石碑は、明暦元年(三百年程前)西国三十三カ所の寺を巡礼した、七十四歳の道運(どううん)という人が満願(まんがん:まわり終わった)の記念に建てたものである。
 この道運という人はどこの人かわからないが、この人が村の頭だった人達にお話しして、今まで村の用事をふれまわる歩行(あるき)に給米(手当米)が無かったのを、つける様にした恩人だとの事である。


6.周辺

  • 山内町、滝波町、本折町、上天下町、加茂内町、加茂町、風巻町、島寺町、志津が丘1~3丁目
  • 大森団地、清水ニュータウン
  • 清水西小学校、清水西公民館
  • 睦月神事会館
  • 天目山、天神山
  • 国指定重要無形民族文化財 睦月神事   

7.参考文献など

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