清水地域の清水畑町・平尾町の伝承

最終更新日 2017年1月27日 印刷

しみずっペディア 清水畑町・平尾町の伝承

※概ね原本「清水町のむかしばなし」のとおりのため、「である」調で記載しています。


清水西地区 清水畑町・平尾町(しみずばたちょう・ひらおちょう)


1.村のおいたち
 清水畑(清水畑町)・平尾(平尾町)は、明治十五年に分村するまで一村であった。志津川の上流、末から流れて来る平尾川、平尾の奥の荒谷から流れて来る川、白滝界(しらたきさかい 白滝町境)の山から流れて来る川の三つが、一つになって流れて行く所にあるので、昔は清水俣(しみずまた、あるいは泉俣(いずみまた))と言った。
 この村は、もと山のすそから、今の在所の上まで広がっている平らな台地のまん中位の所にあったので、そこに神明前、神明奥、庵林、寺所等の地名が残って居る。白山神社も元は白滝界にあった。
 北側の台にあった家は平尾の谷へ移り、台地の真ん中より南にあった家は今の清水畑の所へ移ったと思われる。
 泉俣(清水俣)村が平尾清水畑村に変ったのは、慶長年中、今から四百年ほど前の頃であると言われている。
 千二百年程前、奈良に都があった頃、泰澄大師が越知山を聞く前、まず泉俣(清水畑)にお留まりになり、平尾の荒谷の奥、三本松の頂上が真近に見える所まで登られ、独鈷(とくこ:お坊さんのもつ金の棒)で岩を破って清水を湧出させ、百姓たちには農業を教え、次に光巌寺を建てられたといい伝えがある。
 この泰澄大師の御恩に感謝するため、大師の御尊像を造って、清水畑公民館(※清水畑の集会所)の神棚にお祭りしてある。


2.黄皮田尾(きはだお)の赤土
 清水畑(清水畑町)の在所の南西に、黄皮田尾という山がある。この山に良い赤土が出る。この赤土は上塗用の壁土に使われ、色つやがよく、ひび割れしない良い土なので、昔から清水畑壁(しんばたかべ)と言って有名であった。
 この赤土を掘り出し、かますに詰めて各地へ売り出し特産物であった。勝山市の比良野家で三百年余りも前に建てられたという座敷の壁が、清水畑壁だと言うのを聞き、昔から有名であった事がわかる。勝山までどうして運んだのか、日野川から九頭竜川をさかのぼって運んだものか、馬の背に積んで運んだのか、遠方まで送られていた。
 明治初年まで、山から掘出し臼でついて粉にし、ふるいにかけ、かますにつめて出していたそうである。


3.寺所(てらどこ)
 清水畑(清水畑町)から白滝(白滝町)へ行く道を少し行くと少し田んぼのある谷合いに出る。その清水畑(清水畑町)がわの北に寺所という所がある。
 これは清水畑光巌寺(こうげんじ)のあった所であるが、はじめに建てた所は白滝境の雛谷(ひなだん)という所で、白山神社跡の近く、坊屋敷(ぼうやしき)があって、後、寺所へ移ったとの事である。
 光巌寺はもと真言宗であったが、五百年程前天台宗西教寺の真盛上人が、越前へ教えを広めに来られた時、教えをきいて改宗し天台宗真盛派となった。
 今から四百年ほどむかし天正十九年になって、善悦(ぜんえつ)(善哲)上人が住職の時、真宗に改めようと同行に相談した。ところが反対者が多かったため、住職は寺を出なければならなくなった。
 それで、平尾(平尾町)・末(末町)境に小さいお堂を建てて住んでいたが、のちに末村字出口に移り、本願寺派、専超寺(せんちょうじ)となった。住職方に味方した一部の家も末村へ移ったという。
 反対者の一部は中野本山と大森(大森町)の善福寺へ移り、大部分はそのまま光巌寺に残ったということである。


4.大神宮の神様
 清水畑(清水畑町)の白滝(白滝町)へ行く新道のわきに、鳥居が見え、鳥居の奥に、高き六十センチほどの石造りの小さいお堂が石板の台の上にある。祭神は天照大神である。
 このお堂の中には径十センチほどの丸形の石が、十二個積み重ねて納められ、これが御神体である。
 このお堂はもと川向いの山の中段にあったのを、高橋家の本家、喜兵衛(喜右ェ門)の守り神であるので屋敷の所へ移したと言われている。
 喜兵衛家は太閤検地の時、いづりはの開田に力をつくした家で、その頃から、八朔(九月一日)に祭りがあり、竹生(竹生町)のお神主さんが御祈祷をし、豊作と平和を祈願した。
 御祈祷の前に、お宮の前へ、三又を作り、その上に八升鍋をのせ、米を二つかみと水を入れ、式が終ると、その下で藁(わら)を二・三把(ぼ)燃やす。
 藁がもえてしまうと、参った村人は争って、鍋の中の米を五六粒ずつほど持って帰り、紙袋に入れ、神棚へ上げておく。
 そして、子どもなどがおこり(マラリヤ)にかかると、この米粒をのませて、おこりをなおしたという。


5.平家の末裔
 船戦(ふないくさ)の平家と言われていた平家が、下関海峡の壇の浦で、源義経の軍船に散々にまけ、戦死又は逃げ各地の山奥へ隠れた。
 平清盛の弟、経盛(つねもり)は一の谷の戦に負け、子の経正(つねまさ)ほか三人戦死し、敦盛(あつもり)は船に乗り遅れ熊谷次郎直実(なおざね)に討たれた。その時十七歳であった。
 老の身の経盛は幼い乗経(のりつね)、供盛(とももり)を連れ、少しの家来を船にのせ、平家の船団から離れて、あちこち流れあるいて、下関から日本海へ出、だんだん北へ行き、能登(石川県)の日蔵島(軸倉島-輪島の沖五十キロ)へ上陸した。
 然しここも楽に暮せる所でないので、越前の鮎川(鮎川町)へ上陸し、その山奥の三本木(国見町)へ入り、百姓となった。しばらくして経盛は老年のため死亡し、弟の供盛は鮎川へ下りて百姓となって暮した。
 兄の乗経は子供三人を連れて、あちこちと流れあるき、三代目になって、武士をやめた。そして、馬医者となってあるきながら、山中の薬草をとって売り、暮しを立てていた。
 四百三十年ほど前の永禄二年三月になって、平尾(平尾町)の田中甚太夫という人と仲よくなり、田中家の分家あつかいで、平尾に住みついたのが桑島家の祖先であると言われている。
 平尾の光養寺も、平家の子孫か、平姓(たいらせい)を名乗っておられ、元は天台宗で、末(末町)境に近い「尼が平」の台地にあったと伝えられている。
 其の後、今から三百二十年程前、寛文二年八月、焼けてしまった。水の便が悪かったので、十二年後今の場所へ移ったと言われている。


6.平尾(平尾町)・清水畑(清水畑町)の分村
 平尾、清水畑はもと一村で、平尾が出村の形になっていた。処が明治の始、全国の田畑等を測り直して、新しく田畑等の広きを定めて、税金を取り立てる地租改正が行われることになった。
 そこで平尾側から、この折に清水畑と分村しようとして、清水畑側へ申し入れた。清水畑では反対する者が多くて、中々決まらずそこで裁判にかけようとまでした。
 その後両村が相談した結果、明治十三年から始まったこの間題が、分村にきまって、県から通達が出た。
 清水畑村
  反別四拾町七畝八歩
  戸数 五拾七戸 人口 二七八人
 平尾村
  反別二拾町八反十七歩
  戸数 四拾五戸 人口 二三二人 
それで明治十五年三月十三日、このように分村した。


7.天保の飢謹(てんぽうのききん)
 天保七年、今から約百五十年前、全国が冷害で半作もとれない悪作だった。雨ばかり降って寒く八月中にもあわせの着物を着、七月迄老人子供は行火(あんか)を入れて寝た。九月には白山に雪が降って真白に見えたと言う。
 半作しかとれないお米は皆、お上の年貢に取られてしまって  百姓の食べる米はほとんど残らなかった。それで百姓は山の草や木の葉などで食べられるものを取って来て食べた。
 天保八年正月頃から食べ物がなくて飢え死にする者がたくさん出て来た。其の上悪い病気がはやって、清水畑・平尾では百六十人余り死に、家が死に絶えたもの十八軒、乞食に出て帰らぬもの五軒あった。
 それでも年貢の取立はきびしく、納められないため、庄屋は五日間、長百姓は十日も牢に入れられた。天保九年八月にも年貢が収められず入牢となったといわれている。


8.周辺

  • 滝波町、本折町、平尾町、上天下町、白滝町
  • 農村活性化施設
  • 城山

9.参考文献など

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