清水地域の田尻栃谷町の伝承

最終更新日 2017年1月27日 印刷

しみずっペディア 田尻栃谷町の伝承

※概ね原本「清水町のむかしばなし」のとおりのため、「である」調で記載しています。


清水東地区 田尻栃谷町(たじりとちたにちょう)


1.村のおいたち
 田尻・栃谷・古屋の集落からなっている。地名については、奈良時代東大寺の荘園「椿原の庄(つばきはらのしょう)」の田地が、片山新光寺(片山町の一部)の前に広がっていた。この椿原の庄が、朝宮(朝宮町)の谷間へ続いている田地の端が田尻であり、栃谷は栃の木が茂っていたところで、その名が生れた。栃の実は古代人の食物として大切なもので、大昔はこの辺にも茂っていたが、今ではほとんど絶えて、奥越の山間部にだけ残っている。栃(とち)と名のつく地名は、このように古代人の集落が、近くにあったことを物語っている。
 近くの片粕山(グリーンハイツ4丁目付近)の中腹には、縄文中期頃(紀元前二・三千年)古代人が住んでいた縄文遺跡があり、すぐ近くの田尻栃谷(田尻栃谷町)の小高い丘陵の上(元ブドウ山)などは、古代集落がつくられていたのではないかと思われる。


2.田尻栃谷堀割大工事(たじりとちたにほりわりだいこうじ)
 杉谷区片山区田尻栃谷区(清水杉谷町、片山町、田尻栃谷町)が寄り合っている穴虫、おかたん橋付近は、土地が低く洪水のときは、最後まで水が引かなかったので、百姓たちは何とかしてこの排水を、朝宮・栃谷(朝宮町・田尻栃谷町)のせまい谷から日野川へ落すことは出来ないものかと、以前から考えられていた。
 千メートル以上の堀割(ほりわり)工事には、巨額の経費がかかるので、中々着工できなかった。
 この新堀割の場合、今までの排水河川である、新保水路は、日野川との落差が小さいが、朝宮付近では落差が大きく、排水路として完全排水が出来ることが測量の結果わかっていた。
 一方下天下(下天下町)と三留(三留町)との間で大雨の時沖田が満水して志津川筋「見せや堤」が決壊して、日野川筋の水が下天下・猿和田(和田町)の沖田に流れこみ、水争いが絶えなかった。
 この事件の根本的解決策としては、朝宮・田尻栃谷へ新しい堀割りをつくって、排水するより仕方がないとの事で、実地見分の上、関係十七か村の間で、新堀割普請(ふしん)規定を結び、大工事を着工することになった。
 この堀割は大工事で、堀割組合一同は、領主に巨額の借金を申込み嘆願書を出したり、村々への工事費分担が大きいので、倹約申合せ事項をきめるなどして、慶応三年の春着工し、 十二月末完成の予定であった。
 さしもの大工事も付近の百姓人夫を総動員して、着々と完成に近づいた。ところが、思いがけなぐ、古屋の切り通しの一番深い所が、何回も崩れおち、工事が長引き、十二月完成の予定を、役所へ検分日延べの願いを出し、人夫の増員などで堀割工事の完成は翌年慶応四年春に延期されることとなった。
 ところが、この年九月八日明治と改元され、徳川幕府二百五十余年の幕藩体制はおわり、明治新政府が誕生した。
 この政変の真只中で、大工事堀割が完成し、排水路に水を落すことが出来た。しかしどのような経過、いきさつか不明であるが、突然明治元年春、「埋めこみ仰せつけられ候に付」と文書にかかれているとおり、埋めてしまう事になった。その理由については、土地の古老も知らないが、水が流れたことは親から聞いているとの事である。
 埋めこみの理由は、「掘割不用に相成り見詰も御座なく候」と、如何にも残念至極な文章でつづられている。
 ところが埋めるにも、多数の人夫と金がかかり、明治二年に工事が始まり三年春には又多額の借金をした記録が残っている。
 近郷近在の百姓たちの多年の念願であった堀割工事が、巨額の費用と農民の汗と労働の協力によって完成したものの政変のまきぞえか、異議申立ての方法もなく、「まぼろし」の堀割として記録にとどめられている。なおこの埋めもどし水路の田んぼの作柄(さくがら)が、今日でも違うとのことである。


3.天保の飢饉(てんぽうのききん)
 天保七年の大飢饉には、食べ物がなくて片山(片山町)の山の後にあった田んぼと、ダンゴ三つと交換したという。随応寺の過去帳には、天保七年に十一人、天保八年には四十二人死んでいる。当時四十三戸あった田尻栃谷(田尻栃谷町)で二戸に一人以上餓死した。


4.浄明寺寺屋敷跡
 杉谷・田尻随道(杉谷トンネル)の北側、田尻垣内神明神社の右側の谷に、風巻(風巻町)の浄明寺があったと伝えられる。この谷を「坊谷」と呼んでいる。
 一向一揆の争いの時、本願寺顕如上人が織田信長と和睦し、即時停戦の講和を結んだが、その子の教如上人は大阪石山本願寺で籠城を続け、徹底抗戦を続けていた時、浄明寺の西の道場(田尻道場)の廿四日講と廿八日講から、教如上人へ銀百匁を軍資金として献納した。
 それで教如上人から田尻道場の講中へ礼状が出された。この礼状の写しが杉谷(清水杉谷町)広善寺に残っている。
 風巻の浄明寺は、本願寺縛如(しゃくにょ)上人の三男周覚法師の四男の祐存という人が田尻に草庵を営んだ。その後、草庵の跡をついだ日下部(くさかべ)西玄という朝倉氏の子孫が、織田信長の一揆征伐の時風巻へ逃がれ、藤谷の奥谷垣内(おくんたにかいち)に移った。


5.周辺

  • 清水杉谷町、朝宮町、片粕町、竹生町、片山町、グリーンハイツ9~10丁目
  • ホープタウンン田尻 

6.参考文献など

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