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最終更新日:2009年5月25日

清水地域の山内町の伝承


しみずっペディア 山内町の伝承

※概ね原本「清水町のむかしばなし」のとおりのため、「である」調で記載しています。


清水西地区 山内町(やまうちちょう)


1.大むかしの山内と仏木村(ほうてんむら)
今の山内(山内町)の在所の南、栃川坂の下に、なだらかに北の方へ低くなっている「平等(だいら)」と呼ばれている大きい台地がある。
台地もその両側の谷も皆、田んぼになっているが、その一番南の奥に「仏木(ほーてん)」と言う所がある。
大むかしから、ここに仏木村という村があって、村の人は、この台地や、両側の谷の田んぼを作って暮していた。その頃は、大森の岩坂が高く堰きとめられていて、山内の在所の辺まで湖であった。
それがだんだん岩坂がけずられ、低くなって湖がなくなり、湖の底が田んぼに開かれた。それで仏木から大森(大森町)境まで、田んぼを作りに行くのに遠いので、今の山内の東端の「上野」という台地の下「蛇崩(じゃくぢ)」へ、一軒、二軒と仏木から下りて来て、だんだん南西へ家がふえて、山内の村が出来た。
始めておりたのは、千五百年もまだも前の話で、仏木の村にはむかしから、証光寺という古い天台宗のお寺があった。その後、親鸞聖人が水落(鯖江市水落町)を通られた時、住職さんが改宗したと伝えられている。
ところが、四百年程前、この寺は真宗でも山元派であったので、一向一揆の焼きうちにあい、寺も民家も皆焼かれてしまった。それで、お寺も家も皆、下の山内へおりて、仏木村は無くなってしまった。
このお寺は今の野口(笹谷町の一部)の本覚寺で、明治の終りまで向出の台地にあったが、山内に同行が無かったので、野口へ移った。
元、証光寺の御本尊薬師様は、仏木村の所のお堂に安置してあったが、古くなって元禄十二年十二月始、大雪でつぶれたので、この仏様を山内の神様へ、いっしょにお祭りし、元のお堂がある所へ、験(しるし)の石塔(せきとう)を建てて置いた。
明治十三年に、仏木の荒れ地を田んぽにした時、石塔がじゃまになるので、近くの山の中へ移した。
そして仏木村のあった所は、皆田んぼになっているが、山すそに清水(しょうず)や、お墓のかけらが残っている。


2.武者川(むしゃかわ)と武者橋(むしゃばし)
笹谷(笹谷町)から山内(山内町)を通って大森(大森町)の下(しも)で、志津川と合流する川を、昔は武者川といい、南朝寺と山内境にかかっている橋を武者橋と言っていた。武者とは侍の事である。護良(もりなが)親王に関係があって付けた名前かもしれない。
昔は四ヶ浦(越前町四ヶ浦)、織田(越前町織田)方面から、福井へ出る一番近い道であったので、通る人も多く、道巾も橋巾も、七尺(2.1メートル)あった。
今から百六十年ほど前、土橋であった武者橋が古くなったので、造りかえる事にした。土橋では早くいたんでしまうので、両岸を石垣で積みあげ、石橋にする事にした。
石橋にするには費用が多くかかるので、奉加(ほうが:寄付)を集める事に村の相談がきまり、庄屋と長(おさ)百姓(庄屋を助けて村の世話をする役)二人で、この橋を通って行く、各村々、笹谷から糸生(越前町糸生地区)・萩野(越前町萩野)・織田(越前町織田)・四ヶ浦(越前町四ヶ浦)・厨(越前町厨)まで、奉加集めに行く事にした。
笹谷、糸生の各村、萩野織田の各村から、四ヶ浦厨まで、泊りがけで出かけて寄付金を集め、やっと立派な石造りの武者橋が出来上った。


3.妙見堂(みょうけんどう)と太閤堂(たいこうどう)
山内(山内町)の加茂神社の森の東に「上野」という広い台地があり、最近までは、村の家々の小さい畑がたくさんあった。(今は土地改良で田になっている。)
この畑へ登る道は神様の南と北に一つずつあった。北側の登る道は急な坂道で「堂坂」と言われ、坂の中段の南側に、横約四メートル、たて六メートル程のお堂があり、村の人は妙見様と呼んでいた。
中には大人位の大きさの、刀を振り上げ目を光らせ、おからだは黒く、所々金箔をはった恐ろしい姿の妙見様が正面の台の上に祀ってあった。
恐ろしい顔形の仏様なので、腕白な男の子だけしかこのお堂で遊ばなかった。
このお堂は山内渡辺の本家、為依(ためより)のお堂で、仏様は元仏木村証光寺にあったものかも知れない。お堂の下の屋敷は、護良(もりなが)親王を山崎(京都府と大阪府の境)までお送りした、山崎久太夫の屋敷のあった所である。
為依屋敷はその北、一段下がった所の広い田んぼになっている所で、上下合わせて五反(0.五ヘクタール)ほどもあり、高い塀と立派な門構えの家であった。
その屋敷の北庭に、たて二メートル、横一・五メートル位の太閤様を祀ったお堂があった。このお堂は、むかし太閤検地の時、護良親王御遺跡の鶉が丘の土を、まわりの蓮池や堀のうめたてに使い、為依が自分で開田した。その手柄で蓮池四石免税の御墨付(おすみつき)をもらった。その御恩を思いこのお堂を建ててお祀りしていたと思われる。
昭和六年に為依家が東京へ移った後、両堂の御神体は持って行き、妙見堂は島寺へ売られて、竜雲寺のお堂となり、太閤堂は織田の剣神社へ移されて、その境内のどこかに建てられてあるとの事である。


4.牛頭天王御輿堂屋敷跡(ごずてんのうみこしどうやしきあと)
燈ろう見坂の峠の下の道、上半分は山内(山内町)、下半分は大森(大森町)の地籍である。山内の道になっている途中の道の南わきに「牛頭天王御輿堂屋敷」と彫ってある石碑が立っている。
この石碑は裏に「享保十年二月吉日」と彫ってある。これは約二百六十年ほど前になる。その頃までここに、賀茂の祇園杜の御神輿堂があった所である。ここがお神輿の休み場所であった。
昔からの言い伝えでは、朝日町天王(越前町天王)八坂神社に祇園さんが祀ってあり、大森の賀茂さんにも本社の横に祇園さんが肥ってあるので、両方とも祇園祭りには、氏子村々を御神輿と傘鉾(かさほこ)の行列がねり歩いた。
ところが享保の始めごろ、両社の御神輿がたまたまワッショイ、ワッショイと、村境の遠路見坂まで来て出会い、若い衆同志の喧嘩になった。処が賀茂方は氏子の数が少なかったので、負けて御輿はこわされ、取られてしまった。
その後、賀茂さんでは、御輿を作らず、傘鉾だけで大太鼓をたたいて、氏子村々を回った。それで御輿堂はいらなくなったので壊し、堂跡のしるしにこの石碑を建てた。


5.吉左ェ門(きっさえもん)どんの神さま
山内(山内町)の加茂神社の拝殿の北、二十メートルほどの所に一メートル四方位の小さいお堂が建っている。これを吉左ェ門どんの神様と呼んでいる。
山内は清水(清水地域)で一ばん溜の多い所で、谷の奥にはそれぞれ溜が造ってあり五十ほどもある。この溜の水で田んぼを作っている。
そして、この溜池は魚つりや、水泳ぎなど子ども達の遊び場になっているが、時折溜にはまって死ぬ者もあり、また身投げをする人もあった。
山内では家によっては井戸を掘っても水の出ない場所が多く、御所垣内(ごしょがいち)の北側に、昔は護良親王(もりながしんのう)の御神水と呼ばれた大きな清水が上・下二か所あったので、その水を汲んで水がめに入れて食水にしていた家が多かった。
この清水は、一・八メートル位の大ききで底には川石が敷いであって濁らない様にしてあった。しかしこの清水へ水を飲みに来た子どもが、口をつけて飲む時すべって溺れ死にした事もあった。
このような子どもの災難を何とか無いようにしようと、心配していた吉左ェ門どんの主人の枕もとへある夜神様が現われ「わしがこの災難が起らぬようにしてやる」と夢のお告げがあった。
それで、その神様の春日大明神と兵主(ひょうず)大明神を、明治三十四年四月一日にお堂を建ててお祀りした。
それから毎年、七五三の神詣りには加茂神社とこの神様へお詣りするようになり、子どもが災難にあわぬように祈って帰るとのことである。


6.周辺

  • 大森町、笹谷町、滝波町、加茂内町、島寺町、坪谷町、志津が丘2から4丁目、越前町栃川、越前町大畑 
  • 市指定文化財(史跡) 護良親王御滞留伝承地

7.参考文献など

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