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最終更新日:2009年5月25日

清水地域の上天下町の伝承


しみずっペディア 上天下町の伝承

※概ね原本「清水町のむかしばなし」のとおりのため、「である」調で記載しています。


清水東地区 上天下町(かみてがちょう)


1.村のおいたち
大むかしは、西谷村といって、大森出村(大森町)境から、北へ入る法谷の西北にあったという。
それが、千年以上も前、南向きで谷の奥から清水がよく出ている、南向きの「谷向い垣内」に移り住んで上天下村が出来たという。
その後、小羽(小羽町)へ行く追分の手前のせまい谷に「土断(どばし)」という出村が出来、今の上天下のもとが出来た。大雨の時は、志津川の水が田んぼに流れこんで屋敷も田んぼも水浸しになる事が、度たびあったので、家は谷の奥の高い所へ建てて住んでいた。


2.悪源太義平(あくげんたよしひろ)と石川庄兵衛家
今から八百三十年程前、京の都で平治の乱があり、源氏と平氏が戦って、源氏が負け東へ逃げた。
源氏の大将、源義朝の長男、二十歳の悪源太義平は逃げる途中、美濃(岐阜県)で父と別れ、大野の油坂峠から越前へ来て、大野の朝日にしばらくいてから足羽(福井市足羽町)へ来てかくれた。
その頃、天下(上天下町)の庄兵衛さんは大地主で、石場(いしば 足羽町)にも家があった。義朝の家来、斉藤実盛(さねもり)は越前の者で、負けてから一足先に越前へもどっていた。
石場に実盛のお寺があって、庄兵衛さんを知っていたのか、義平をかくまってくれる様頼んだらしく、庄平さんは喜んで引受け、目立たない田舎の天下の家へつれて行き親切にかくまってあげた。
或る日の夕方、お風呂をわかして、義平様に入ってもらい、次に庄兵衛さんの子供が入ろうとした所、少し熱かった。それで水を入れてくれと言った時、義平はその子に、「自分も子どもの頃お湯が熱いと小言を言った処、父は、熱湯をたらいに入れて自分にもたせ、立たして置いて、男の子が少し湯が熱いからといって我慢が出来んようでは立派な人にはなれん。後から入る人がぬるくて迷惑する。」と言って叱られた事を話して、庄兵衛さんの子を諭したとの言い伝えがある。
それから、庄兵衛さんの家ではいつもその話を子どもに代々伝えていましめにしたとのことである。
それから十日程たって、父義朝が一月四日に尾張国(愛知県)で、もとの家来長田忠致(おさだただむね)に入浴中だまし討ちにされ、首を清盛の所へ送った事をきいた。
そこで義平は何とか父の仇の清盛を殺そうと、一人で京都へ出かけようとした。庄兵衛さんが「今は都には平家の者ばかりで危ないので、今しばらく時期を待って仇を討ってはどうか」と思いとどまるよう注告したが、きかずに油坂峠から美濃を通って京都へ忍びこんだ。そして下男に変装して邸(やしき)をうかがったが、守備兵に固まれ屋根づたいに逃げ、後、逢坂山(おうさかやま)で捕えられ、六条の河原で首をはねられた。


3.俳人石川白兎(はいじんいしかわはくと)
今から約二百七十年程前、石川庄兵衛家の主人、弥三治(やそじ)孝勝は俳句を好み、三国の俳人岩名昨嚢(さくのう)という人と友達となった。そして三国に家を借り、無職では役人にとがめられるので、入口の土間に石臼を据え仕事をしているように見せかけ、俳句づくりをしていた。
そして昨嚢の世話で、その頃有名な松尾芭蕉の弟子で、十哲の一人、美濃(岐阜県)の各務支考(かがみしこう)の門人となり「白兎」の号をもらった。
その後、三国・福井の仲間と俳句の会を聞き、商売や仕事をしないで俳句に熱中した。
正徳五年に山中温泉で、加賀の俳人や支考と共に俳句の会を聞き、支考の許しを得て、この句会の句に今までの句を加えて「菊の十歌仙」という句集を出版した。この句集は、国会図書館と石川正平家にしか残っていないとの事である。


4.庄兵衛家と御用達金
天下(上天下町)の庄兵衛家は、江戸時代中頃には「天下屋」といっ て、福井の金屋、慶松家(けいまつけ)と並んで三大商人として、福井藩の御用をつとめ、石場に屋敷を持っていた。
幕府の巡見使など福井藩の大切な客が来られると、この三軒が御用宿にきめられていた。
八代将軍吉宗の時代、巡見使、高力平八郎が来られた時、石川弥三次孝勝はその御案内役をつとめた。
その頃、福井藩は領地が半減されていて、藩の財政が苦しかったので、御用商人からお金や米を借りて財政を賄っていた。
石川庄兵衛家でも多額な御用金を調達していた。或時、七駄片馬に千両箱を積んで、福井の御城下へ行くのを村人が見たと伝えられている。
七駄片馬とは、馬一頭に千両箱二つを振分け荷とした馬七頭と、一頭には一箱積んでいくことで、一万五千両の大金であった。
その頃、用達した金は約三万両で、米は二万一千俵にも達したと言われている。
そして、弥三次孝勝は年とってから、もし子や孫に不心得者が出て、この証文で殿様へお金を請求する事のないようにと、証文は残らず差し上げてしまったという事である。


5.日下部道音の墓
風巻(風巻町)浄明寺住職の弟の道音というひとは、大正の始め頃上天下(上天下町)の和讃講(わきんこう)の人に、お勤めや仏法をわかり易く説いて聞かせた。そしてまた、渡辺嘉右ェ門家を借りて、日曜学校を聞き、子ども達にも仏の道を教えていた。
道音さんが亡くなってから、両天下(上天下町、下天下町)の講中の者がその徳をしのんで、谷口松太郎家の道の傍らにお墓を建てた。墓には、光林院釈道音と彫ってある。


6.法谷(ほうたん)の溜池
法谷地籍は、大森(大森町)の地積であるが、この谷の奥にある法谷溜池は、上天下村(上天下町)が大森より卸し請けしている土地で、竹生村(竹生町)、片柏村(片粕町)へ「また卸し」していた。この溜池は、竹生、片粕の水不足を補うために福井藩の援助で造った溜池である。この溜池の水を一本柳(志津川近くの大森町の小字名)から志津川へ流して、三留(三留町)地籍から竹生、片粕用水へ流すわけである。
この借地米として二石六升八合を、竹生、片粕から上天下が受取り、上天下では七斗を大森へ年貢として納めていた。
この法谷溜池については、次のような言い伝えがある。福井藩の殿様にかくし子があって、片粕に住まわせて置いた。そのため片粕村に対して、隠まってもらう礼として、遠くの上天下から水を引いて便を与え、我が子への「脇き付け」としたとのことである。


7.周辺

  • 大森町、下天下町、和田町、小羽町、末町、本堂町 

8.参考文献など

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