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最終更新日:2009年5月25日

清水地域の文化財 方山真光寺跡塔址


しみずっペディア 方山真光寺跡塔址

※概ね参考文献のとおりのため、「ですます」調と「である」調が混在しています。予めご了解願います。


 片山真光寺(かたやましんこうじ)は、丹生郡内に五ヶ寺の末寺を持った大きな寺院でした。鎌倉時代の創建と推定され、朝倉氏滅亡の翌年、天正2(1574)年に一向一揆によって滅ぼされました。発掘調査によって、木造塔址は五重塔であることがわかりました。
 なお、この跡地は、展望が開けています。


1.幻の寺・方山真光寺(かたやましんこうじ)
 今から約五百五十年程前、京都駅南の真言宗大本山東寺にある文書の中に「越前国真光東寺(とうじ)修造料足奉加(そくほうが)人数注進状」というのがある。
 それによると丹生郡方山(かたやま)真光寺奉加人数、住職光円外十八人、下寺横根寺等五ケ寺僧七人、合計二十六人の名と金額が書かれている。
 片山は「方山」新光寺は「真光寺」と書かれ、東寺の末寺で相当大きい寺であった。ところが、この寺が、いつ誰によって建てられたのか、又いつなくなったのか全然記録が残っていない。この文書は文安二年(一四四五)八月七日のものであるが、その二十三年後に、越前守護斯波義廉(しゅごしばよしかど)と朝倉敏景が戦った清水山合戦があり、また、その二十年後には、天台宗坂本西教寺の真盛上人が越前布教に来て、一乗谷朝倉氏の外護(かいご)を受けて各地に寺を建てた。今の片山西光寺もその一つと考えられる。
 朝倉時代、方山真光寺の寺跡へ、朝倉家臣増井氏が械館(しろやかた)を築いて入った。二町に五町(約二百メートルに五百メートル)という広い場所であったという。西光洋は増井氏の援助により城館の南端に建てられたと思われる。
 以上から考えて、真光寺はおそらく、清水山合戦に義廉方であった清水山城主太田氏に味方したため、朝倉軍の攻撃で焼かれ、僧侶は全部逃散又は戦死したのではないかと思われる。


2.片山で五重塔跡を発掘
 今回の発掘は、西光寺(さいこうじ)(片山)本堂の裏山にある、盗掘された石造塔の性格を解明するために行ったのですが、予想もしなかった木造の五重塔跡が見つかりました。
 この塔は、戦国時代まで片山の新光寺にあった方山真光寺(かたやましんこうじ)という寺のものだろうと考えられます。真光寺は、室町時代の古文書に、末寺が五ケ寺あったと書かれていることから、かなり大きな寺院であったと推測されていました。しかし、他に記録が残っておらず、その実態は全くわからない寺でした。


3.五重塔は高さ約30m
 石造塔を調べるために、まず塔のある台上の部分とその周囲を掘っていきました。すると、1mほどの範囲に並べられた配石が出てきました。さらに堀りすすめると、1.8m間隔で配石が並んで出土したので、建物の礎石を置くための根石であることがわかりました。心柱の礎石と思われる2mほどの石も出土しました。
 この建物は鎌倉時代のものと推定され、心柱の礎石(心礎)があることから、五重塔であったことがわかりました。(平安時代以降、三量塔には心礎がなく、五重塔には心礎を持つものがありました。)
 この五重塔は、一層目が5.4×5.4mの大きさだったことから、高さが約30mほどあったと推測されました。屋根は瓦が全く出土しなかったので、檜皮葺(ひかわぶき)であったのかも知れません。
 礎石は全部で17個あったはずですが、四天柱の礎石1個と本来の位置から移動された心礎だけが残っていました。この心礎は、石造塔がのる台の石垣に転用されていました。
 興味深いことに、残っていた礎石2個は赤く変色して、割れやはく離などが見られました。さらに、炭や熱で溶けた銅製品が出土したことから、この五重塔は火災にあって燃えてしまったようです。そして、その跡地に石造の塔が再建されたことがわかりました。
 鎌倉時代に木造の五重塔があった寺は、北陸地方では他に知られていません、このことから真光寺は、清水地域の歴史の上で他に例のない大規模な寺院であったことがわかってきました。
 まだまだ謎の多い寺なので、少しずつ調査して歴史的な背景を明らかにしていきたいと考えています。


4.片山真光寺塔跡から相隣(そうりん)が出土
 前回の調査では木造の五重塔跡が見つかりましたが、今回の調査では塔の上に載せられる鉄製の相輪(そうりん)の破片(図参照)が出土しました。相輸の出土は、塔の発見以上に珍しいものです。
 相輪は単なる装飾ではなく、塔に重要な意昧を与えるものです。宝珠(ほうしゅ)はお釈迦様の遺骨を安置するもので、竜車(りゅうしゃ)はその乗り物を表しています。九輪(くりん)は宝輪(ほうりん)とも呼ばれる九つの輪で、大白(だいにち)・阿閃(あしゅく)・宝生(ほうしゅ)・阿弥陀(あみだ)・不空成就(ふくうじょうじゅ)の五大如来と、普賢(ふげん)・文殊(もんじゅ)・観自在(かんじざい)・弥勒(みろく)の四大菩薩を表しています。真光寺の塔跡から出土したのは、水煙(すいえん)・九輪(くりん)・殺管(さっかん)の破片と請花(うけばな)の花びら先端の破片です。
 相輸の破片が小さな断片であったのは、鋳造品のため衝撃に弱く、30m余り上から落下したために粉々に砕け散ったのだと考えられます。また、破片が少ないのは再利用のために持ち去ったためと考えられます。
 相輪が出土したということは、真光寺の五重塔が完成していたことを示し、塔が火災で焼けた後に横倒しに倒れたのではなく、ほぼ垂直に崩れ落ちたことが想像できます。もし、横倒しに倒れたのならば、相輪は山の下に飛んでいって見つからなかったでしょう。また、厨子の金具と焼き物の仏像片の出土から、培の1階(初層)に阿弥陀三尊像が厨子に入れられて安置されていたらしいこともわかってきました。
 真光寺の五重培は、復元すると今日の5階建てビルの高さに相当し、高さは35mほどになります。それは、当時の丹生郡で最も高い建物であったと思われます。しかし、一向一揆で滅ぼされたためか、末寺五ケ寺を数えた大寺院も親光寺という集落の名になごりをとどめるだけとなり、かって壮大な五重塔があったことも人々の記憶から忘れられてしまったのでしょう。
 この発掘調査で、真光寺の塔跡についてはほぼ全容が明らかになりました。本堂など、他の建物についても、今後明らかにしたいと考えています。しかし調査の手がかりが少ないので、真光寺に関する言い伝えや遺物について、何かご存知の方がいらっしゃれば教えていただければと思います。


5.交通アクセス
 本塔址へは、京福バス清水グリーンライン清水プラント3止「清水プラント3」停留所を下車、又は西田中宿堂線「在田 」を下車、徒歩約40分。


6.周辺

  • 清水中学校(島寺町)
  • 福井市きらら館(風巻町)
  • きららパーク(風巻町)
  • ふれあいドーム(島寺町)
  • 清水南公民館(風巻町)
  • 清水図書館(風巻町)
  • 清水郷土資料館(風巻町)
  • マイドーム清水(真栗町)
  • 清水東小学校(三留町)
  • 清水東公民館(三留町) 

方山真光寺跡塔址 (pdf)


7.参考文献など

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