清水地域の文化財 三留城跡

最終更新日 2017年4月5日 印刷

しみずっペディア 三留城跡

※概ね参考文献のとおりのため、「ですます」調と「である」調が混在しています。予めご了解願います。


 三留城跡(又は三富 みとめじょうあと)は、近くの正寿寺のある三留屋敷に館があったとされています。


1.概要
 三留城は、一乗谷朝倉氏の初代敏景の六男景儀(かげのり)の子、孫六郎景冬が築いたと伝えられています。五位山の頂に本丸址があり、正寿寺のある三留屋敷に館がありました。三留城は景冬の弟景総(かげふさ)、その子景久(かげひさ)へと受け継がれ、景久の子千代雅丸(ちよがまる)が正寿寺の住職となって父祖の菩提を弔ったそうです。


2.景冬
 一乗谷朝倉初代敏景の六男景儀の嫡子景冬が、丹生北の押えとして三富(三留)に城館を構えた。館は気比社と正寿寺の間の平地と推定され、裏鬼門を気比社とし、鬼門に正寿寺を立てて護りとした。
 城の区域は、正寿寺の岡、気比社の岡を中心とし、南・西は志津川、東は沼田(堀の跡か)北は五位山との間を堀り切り、この四方の要害に囲まれた一帯と考えられる。
 景冬は、一向一揆討伐の名将敦賀城主朝倉金吾教景の甥で、孫六郎と称し教景の参謀として一揆討伐に功があった。
 弘治元年(一五五五)八月十三日、加賀敷地(大聖寺北)で一向一揆と激戦中、不幸にも流れ矢にあたり戦没した。その子景信、孫景久と三代が三富に住み朝倉一門として威勢があった。
 天正元年(一五七三)八月朝倉義景が織田信長に亡ぼされた時、信長に降服して所領を安堵されたが、翌二年二月越前加賀の一向一揆が峰起、その大軍に三富城を攻められ十五日、景信等は戦死し城は落ちた。天正三年信長が一向一揆を平らげた後、生き残った景久の子千代雅丸が正寿寺を復興し父祖の菩提を弔った。
 現在正寿寺の附近に、御城垣内、御陣(前)垣内の地名および正寿寺の岡に城の遺構が残っている。


3.交通アクセス
 本城跡へは、京福バス清水グリーンライン「三留東」停留所を下車、又は西田中宿堂線「三留」を下車、徒歩数分。


4.周辺

  • 清水東公民館(三留町)
  • 清水東小学校(三留町)
  • 清水総合支所(小羽町)
  • 福井市きらら館(風巻町)
  • きららパーク(風巻町)
  • 清水南公民館(風巻町)
  • 清水図書館(風巻町)
  • 清水郷土資料館(風巻町)
  • ふれあいドーム(島寺町) 

三留城跡 (pdf)


5.参考文献など

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