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最終更新日:2009年5月25日

清水地域の文化財 護良親王御滞留伝承地


しみずっペディア 護良親王御滞留伝承地

※概ね参考文献のとおりのため、「ですます」調と「である」調が混在しています。予めご了解願います。


 護良親王御滞留伝承地(もりながしんのう又はもりよししんのう ごたいりゅうでんしょうち )とは、越前山内村(現在福井市山内町)へ難を逃れた護良親王が数ヶ月滞留した場所で、その御所跡が、御所垣地(ごしょがいち)、蓮池の字として残されています。


1.概要
 護良親王御滞留伝承地は、福井市山内町の字御所垣内(ごしょかいち)・通祢御屋屋敷にあります。本伝承地は元弘二年(1332)に挙兵に失敗した後醍醐天皇の皇子、護良親王が鎌倉幕府の追手を逃れ、渡辺為依(ためより)方に二月から四月にかけて難をさけて住まわれたところであると言い伝えられています。
 山崎久太夫(きゅうだゆう)家の言い伝えによれば、元弘二年の四月一日に護良親王の一向を摂津山崎まで久太夫がお送り申し上げたところ、親王からご苦労であった、ついてはお前に望みのものをとらすとのお言葉を賜ったそうで、そこで久太夫は苗字と紋所とを賜われるようお願い申し上げると、親王は山崎まで来てくれたのだから、姓は山崎と名のるように、紋所には剣かたはみを用いるようにとのお言葉を賜ったと言い伝えられています。
 なお、本伝承地には日月のくりぬきのある石の祠があり、元弘二年壬申四月-日と刻まれています。しかし、この日月のくりぬきのある石の祠は、江戸時代に田の神などを祭る祠として起前地方でごく普通に造られたもので、とくに年号の刻まれた部分の石材は江戸時代に採掘の始まった石であるので、山内に護良親王が来たとの伝承を記念して江戸時代に刻まれたものであることかわかります。


2.護良親王について
 護良親王は、後醍醐天皇の第六皇子、延慶元年(1308 )に生まれました。天台座主となり尊雲と称し、世に大塔宮(おおとうのみや)と呼ばれています。還俗して元弘の変に活躍、建武の新政に征夷大将軍となりましたが、足利尊氏と反目して、鎌倉に幽閉されました。後、建武二年(1335)北条時行ら北条氏の銭党が起こした中先代の乱の最中、鎌倉から敗走する足利直義の手によって殺害されました。


3.地元の取り組みや賀茂神社との繋がり
 山内町は、昔から湧水に恵まれていましたが、近年は地下水の道が変わったのか、以前ほどではなくなったそうです。それで、山内のお清水を大切に守っていくため、町内の人が力を合わせて環境整備をしているそうです。
 先に進み右手へ折れると、すぐに見える少し高くなった所一帯が護良親王(もりながしんのう又は、もりよししんのう)ゆかりの地として有名なところです。きれいに整備され、砂利がしきつめられた所にお堂が建っています。中には唐塔(からとう)と呼ばれる日月をくり抜いた石の祠が納められています。この地は、鎌倉時代に護良親王が都の争乱を逃れ山内に滞在したときに、賀茂神社の方に向かって武運を祈った遥拝所(ようはいじょ)のあった所と伝えられています。
 また、この地の隣に御所垣内と呼ばれる所があり、今は人家が建っていますが、親王のお屋敷があった所と伝えられています。


4.旧清水町史の一口噺(ひとくちばなし)
・京都上賀茂社と大森賀茂社
 京都の賀茂神位の北北西約二キロメートルのところに、鉢を伏せたような「神山」がある。ここに神代の昔、別雷(わけいかづち)大神が天からお降りになったという。この神山(御神体)を遠くはなれたところから拝礼するお宮が上賀茂の社である。今でもお祭りは、ここから神山に向って行われている。
 ところで、大森(大森町)の賀茂神社も昔から雷神社といい、別雷大神を祭っている。現在の本殿の後の山は、上賀茂の神山(こうやま)と同じく鉢を伏せたような形である。由緒書に「昔、子丑(北北東)の方ヘ去る事二十丁余、大森村端の山に相祭り」とあり、また、山内の御所垣内の中に「賀茂遥拝(ようはい)所」という名が残っている。
 すなわち、今から六百六十年前までは、今神社の徒にある賀茂山が雷神社の御神体で、これを遥拝する社殿は、山内御所垣内にあった。それで由緒書にあるように、源満仲が天禄年中、越前守で来任の時、山内村へ来て、雷神社の額を寄進したとか、兵部卿護良(もりなが)親王が元弘二中の春、山内村へ避避難されたとかいうわけである。
 護良親王の場合は突然のお越しであったので、遥拝殿や当時下賀茂社領の志津庄を治めるために京都から来ていた神官等の屋敷の屋敷を 假御所(かりごしょ)としたと考えられる。この時親王の指図により現在地に社殿を移し、親王の道中安泰のため奉持して来た下賀茂の御神符を合祀(ごうし)し、賀茂下上大明神としたものと考えられる。


5.附記
 山内(山内町)の遥拝所は、明治末まで大森賀茂神社の境外社地であった。 


6.その他
 鎌倉幕府末期の元弘二年(一三三一)、今から約六百六十年前、議良親王は、時の後醍醐天皇をお守りし、鎌倉幕府討幕を企てたが.これが密告され、京都六波羅の幕兵に追われ(元弘の乱)、一時、越前唯一の下賀茂社庄園志津庄(しょうえんしづのしょう)、山内村へ難をさけられた。
 後醍醐帝は、反幕の計画で護良親王(帝第六皇子)を天台座主(ざす)とし、当時仏木村出身の天台僧弁応(べんのう)や賀茂神社の手引きで二月初め退避され、山内村の豪族である為依(ためより)以下庄内一円で匿(かくま)り、四月一日まで、この地を仮御所として御滞留になられた。
 三月七日、後醍醐天皇が隠岐島へ流され、京の警備もゆるんだので、再挙兵のため、四月一日、河内大和(こうちやまと)の方へ戻られ、以来、長い南北朝の戦が始まった。
 山内地籍には、「御所垣内(ごしょがいち)」お屋敷とか、「蓮池(はすいけ)」、弓の稽古をされたと伝えられる「的場(まとば)」、御使用水の「清水井(しみずい)」などの地名が残っている。
 御所垣内には現在、御旗(みはた)をかたどった日月形(にちげっけい)に切り抜かれた唐塔(からとう)があり、元弘二年四月一日と刻まれてある。


7.交通アクセス
 本滞留地へは、京福バス清水グリーンライン(織田行き)「山内」停留所を下車、徒歩数分。


8.周辺

  • 睦月神事会館(大森町)
  • 清水西公民館 (大森町)
  • 清水西小学校 (大森町) 

護良親王御滞留伝承地 (pdf)


9.参考文献など

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