清水地域の文化財 清水山城跡

最終更新日 2017年1月27日 印刷

しみずっペディア 清水山城跡

※概ね参考文献のとおりのため、「ですます」調と「である」調が混在しています。予めご了解願います。


 清水山城跡(しみずやまじょうあと)とは、戦国時代朝倉氏の武将大田家の城で、跡地には、守護神として毘沙門天が祀られています。


1.概要
 清水山城は、昔は三方日野川に囲まれた要害の地にある。ここに室町時代、守護斯波(しゅごしば)氏の家臣太田氏が城を築き、文明元年(1469)7月朝倉氏に攻め落とされるまで在城した。 その後子孫の太田一吉が羽柴秀吉の馬廻りとなり中国征伐に功をたて、天正十年(1582)清水山城三千五百石を贈り越前に帰った。文禄二年(1593)豊後(ぶんご)(大分県)臼杵(うすき)城六万五千石の大名となるまで約12年在城した。
 その跡を嫡子隆満(たかみつ)が秀吉の馬廻りとなり清水山城六千石を領し慶長五年(1600)関ヶ原の戦いに敗れる迄約8年在城した。


2.武将太田氏
 清水山上の日野川堤防に接し、森に囲まれた高さ約五米位の台地、これが清水山城趾である。西側中央に毘沙門の小社、天然記念物の大杉があり、その周辺に堀り切り等の跡が残り、井戸跡もある。
 この台地は、元、東の三尾野(三尾野町)方へ張り出していて、日野川が南、東、北を囲む様に取りまいて流れ、自然の要害であった。ところが大正の頃、日野川改修で城跡の東半分が日野川地となり曲っていた日野川が真直になった。
 この城は清水山の記録(三上武氏)によると、応永十七年(1410)越前守護斯波義重の重臣、太田貞元がこの台地に城を築いたのが始まりで、子貞重孫貞敏の三代が約六十年間在城していた。文明元年七月、貞敏が斯波義廉を助けてこの城に立篭もり、朝倉敏景の軍と戦ったが敗れ、十七日貞敏は自殺して落城、一族は義廉と共に尾張へ逃れたという。
 其の後、大正十一年(1583)賊ヶ岳の戦功により、丹羽長秀が越前の領主となった時、太田貞敏の子孫で羽柴秀吉の馬廻り(旗本)となっていた太川小源五一吉が、秀吉の命により長秀の付奉行として越前清水山城二千五百石、祖先の地へ帰って来た。
 天正十六年天王八阪神社の大旦那として拝殿を建て、十八年の小田原征伐には八王寺城攻撃に功をたて、美濃関一万石を加増された。
 文禄・慶長の朝鮮出兵には目付奉行として渡鮮、南原攻城、蔚山籠城等の手柄により九州豊後(大分県)臼杵(うすき)六万石の大名に昇進飛騨守となる。子息隆満も秀吉の馬廻りとなって居たが、一吉が臼杵ヘ移ると父の跡をつぎ、清水山城六千石を領し美作守(みさくのかみ)と称した。
 慶長五年(一六OO)関ヶ原の戦に父子共西軍につき、瀬田橋の守備、臼杵篭城をしたが敗戦により降版。領土は没収されて清水山域は廃城となった。父子の清水山在城は十七年であった。


3.交通アクセス
 本城跡へは、京福バス清水山線「清水山」停留所を下車、徒歩約5分。


4.周辺

  • 清水南小学校(真栗町)
  • ふくい健康の森(真栗町)
  • マイドーム清水(真栗町) 

清水山城跡 (pdf)


5.参考文献など

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