清水地域の文化財 木造観世音菩薩座像

最終更新日 2017年1月27日 印刷

しみずっペディア 木造観世音菩薩座像

※概ね参考文献のとおりのため、「ですます」調と「である」調が混在しています。予めご了解願います。


 像高23cm、両肩をおおう衣を着け、高い髻(けい)を結い定印を結んで座る観音菩薩です。衣のひだが厚くおおまかな表現であることや、高く筒略化された髻など形式化した特徴から室町時代後期の文明・天文年間頃(1469~1554)の製作とみられています。


1.概要
 電雲寺は、京都花園町にある禅宗妙心寺派本山末寺で、石泉山(せきせんざん)龍曇寺と言う。
 寛永元年(三百六十五年前)福井藩主忠昌公(ただまさこう)菩薩寺の東光寺住職、瑞雲和尚を招き、開山。遠山和尚の創建した寺院と伝えられている。
 昔島寺は、北陸道裏道の重要な分岐点に立ち、今も杉谷方面と小羽、風巻方面に通ずる分れ路となっていることから、重要な地点であったことがわかる。
 竜雲寺の下には、幾段かに整理された敷地があり、二、三十戸の敷地があったものと考えられるが、近年、御堂に昇る道路が改修され、昔のおもかげは少ない。
 観音響薩像は、間口二間、奥行三間の御堂に安置され、御本尊としてあつく信仰され、今日に至る。


2.忘れ去られた寺 嶋山寺(とうさんんじ)(しまやまでら)
 片山町の方山真光寺と同じく、約五百五十年前の京都真言宗大本山東寺(教王護国寺)文書(もんじょ)の中に「丹生北部、三富郷、嶋山寺、東寺御修造奉加(ほうが)人数の事」というのがある。それに嶋山寺のお妨さんの名が次の様に書いてある。
 遍照院法印杲桂(へんじょういんほういんこうけい)、法印賢澄(けんちょう)、法印惠賢(けいいん)、法印英禪(えいぜん)、権少(ごんしょう)僧都光偏(そうづこうへん)、権律師惠順(ごんりつしけいじゅん)、権律師賢盛(けんせい)、桂尊(けいそん)、桂俊、桂宗、桂乗、以上十一人。文安二年(一四四五)八月四日とある。
 これは南北朝の戦等でいたんだ東寺の建物を、直す費用を寄附(奉加)した名である。
 この寺には法印という、学徳優れ最高の位(くらい)を持ったお坊さんが四人も居り、その下に僧都・律師という高い役職を持った僧が三人居る。凡(ぼん)僧は四人である。
 郡内(丹生郡)で東寺の末寺は、この外に織田剣(つるぎ)大神宮寺、朝日寺、天王王神(おうじん)寺(八阪)、片山真光寺があるが、法印四人というのは嶋山寺だけで、この寺は格式が高かったと思われる。
 この嶋山寺は、真光寺と同じく創立も不明、しかも清水山合戦に焼き亡ぼされたのか、今ではその場所も名も忘れ去られてしまっている。
 その後百五十年、江戸時代の寛永元年( 一六二四)、福井の臨済宗(りんざいしゅう)東光寺瑞雲(ずいうん)和尚が、島寺公民館の西、山の中段に竜雲寺を建てた。この寺はその後無住の時もあり、明治の始廃(はい)寺となって小さいお堂が残っている。
 その南の浄福寺は、更に四十年後寛文四年(一六六四)、栃川円福寺十代円淳(じゅん)の創立という。
 ところでこの嶋山寺のあった所は何処か。恐らく敷地も広く飲み水も多い竜雲寺の所でないかと考えられる。


3.清水地域の歴史の道標(みちしるべ)
(1)嶋山寺(しまやまでら)と竜雲寺
 島寺公民館の前、道を横切って石段又は新しく造った車道を登ると、広い寺地があり、真中に大日如来を祭った小さい竜雲寺の仏堂がある。この寺地の右側に、杉・竹の藪が続き、この藪の中を右前へ進むと、土手前に次の写真の墓地が残って居る。
 墓は上が丸いお坊さんの墓が一つと、不揃いの五輪塔(りんとう)・割れた石仏が沢山横一列に並べて置かれてある。五輪塔は地輪の四角な石と水輪の丸い後去られ残って居ない。
 寺地の広場から左へ少し登りの車道が白山神社の境内迄付けられてある。この境内から在所へ降りる小さいお堂が作ってあり、その中に沢山割れた石仏が並べ祭られてある。
 この石仏は、金重(かねじゅう)さんの近くの田を整理の際田の土の中から堀リ出されたもので、村の人が勿体(もったい)ないと考え相談して、お宮さんの石段上横へお堂を建て、その中へ並べて祭ったものだという。(島寺町在住、面(おもて) 繁司氏の案内による)
(2)
嶋山寺(しまやまでら)と竜雲寺
 二百年程前に書かれた、越前名蹟考(めいせきこう)に「千三百年程前、奈良時代に泰澄(たいちょう)大師が四万体の仏像を刻まれ、これを本尊に寺を建て、四万寺と名付けた。その後長い年月の間にしまん寺がしま寺と変った。」と書いてある。この泰澄大師の開かれた寺が、その後どんな移り変わりをしたが記録は残っていない。七百五十年後室町時代中頃、文安二年(一四四五)には真言宗東寺(しんごんしゅうとうじ)の末寺(まつじ)であった記録がある。
 東寺は、京都駅の南に高い五重塔のある大きい寺で、平安時代の始弘法(こうぼう)大師が、天皇から建物を頂いて寺としたもので、東寺派の本山である。戦争等で寺が破損したのを直すため、末寺から費用を集めた記録の中に嶋山寺からのお坊さんの出し分も書いてある。(旧清水町史一口噺(11)参照)
 それによると、住職は遍照院法印杲桂(へんしょういんほういんこうけい)。遍照院(へんしょういん)は京都嵯峨(さが)の遍照寺元住職に与えられた院号か。法院はお坊さんの最高の位である。杲桂(こうけい)の他に法印が三人、僧都(そうづ)・律師(りっし)等坊さんの頭だった役の人が三人。(越前の末寺約九十ケ寺中、こんなえらい坊さんの多く居た寺はこの寺だけである。)それに杲桂の弟子と思われる方が四人、合計十一人。兼重さんの近くの参道に石仏が並べられ、そこから嶋山寺迄の間に十人のお坊さんの寺坊があったと思われる。この文安二年から二十三年後、越前の守護斯波(しゅごしば)氏の家老太田氏が守って居た清水山城を、朝倉氏が攻め落とした激戦に、嶋山寺も片山真光寺も巻き込まれて焼かれ、お坊さんは逃げて戻らず寺は無くなった。参道の脇にあった石仏は戦争の邪魔になったので下の田んぼに投げ込まれて土に埋まり、墓地の五輪塔だけ残ったと考えられる。
(3)嶋山寺(しまやまでら)と竜雲寺
 応仁の乱の頃、嶋山寺が無くなってから約百七十年、徳川太平の世の寛永元年(一六二四)越前藩三代を継いだ忠昌(ただまさ)が越後高田から入国した。その時、美濃の名僧瑞雲和尚(ずいうんおしょう)を招いて建てた高田の東光寺を住職とも福井勝見に移した。寛永十一年、遠山(えんざん)和尚が由緒ある嶋山寺跡へ竜雲寺を建て、東光寺の瑞雲和尚を開山として招き寺を開いた。その後鉄額(てつがく)和尚が跡を継いたが、暫くで寺は無住となった。
 それから三十年程後、延宝(えんぽう)二年吉江藩主昌親(まさちか)が五代福井藩を継いで福井へ移ると、吉江の瑞源(ずいげん)寺を小山谷に移した。吉江瑞源寺は元、泰澄太師の古跡ですたれていたのを昌親が再興したものである。翌三年、小山谷瑞源寺の大忠徹(ちゅうてつ)和尚が、島寺竜雲寺を再興し、瑞源寺の末寺とした。住職は瑞源寺から派遣されていたと思われるが、今竜雲寺のお堂にある半鐘(はんしょう)に「天明元年三月島寺村石泉山(せきせんざん)竜雲寺?師現住黙(もく)堂」とかかれてある。
 鳥寺村の古文書、天明四年十一月の村究連判(きめれんぱん)証文・同五年の百姓連判究証文・寛政十年(一七九八)同十一年の連判究証文の中に、竜雲寺又は略字で了雲寺と署名し捺印されている。なお、文政十三年(1830)四月の竜雲寺地所記録帳・竜雲寺再建記録帳も残されてある。
 その後何時から無住職の寺となったか明らかで無いが、明治元年御一新の時、神仏混合禁止令が出され、無住の寺は取り壊しと言う事になり、同行の無い竜雲寺は、本堂庫裏鐘楼(くりしょうろう)等皆取り壊された。それで村の人は、山内為依(ためより)家の太閤(たいこう)秀吉を祭ったお堂の建物を譲り受けて建て、残された大日如来・韋駄天(いだてん)をお祭りした。登り口には「観世音菩薩」の石造標柱が残っている。(終)

4.交通アクセス
 京福バス清水グリーンライン(西田中行き)「島寺公民館前」停留所を下車、又は西田中宿堂線「島寺公民館前 」を下車、徒歩数分。
 なお、本観音菩薩が安置されているお堂は、普段は閉まっています。 
5.周辺

  • ふれあいドーム(島寺町)
  • 清水南公民館(風巻町)
  • 清水図書館(風巻町)
  • 清水郷土資料館(風巻町)
  • 福井市きらら館(風巻町)
  • きららパーク(風巻町)
  • 清水中学校(島寺町)
  • 清水総合支所(小羽町)
  • マイドーム清水(真栗町)
  • ふくい健康の森(真栗町)
  • 清水東公民館(三留町)
  • 清水東小学校(三留町) 

木造観世音菩薩座像 (pdf)


5.参考文献など

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