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最終更新日:2009年5月25日

清水地域の文化財 結城晴朝館跡


しみずっペディア 結城晴朝館跡

※概ね参考文献のとおりのため、「ですます」調と「である」調が混在しています。予めご了解願います。


 藩祖秀康公養父晴朝公は、慶長6年8月より約5ヵ年間、片粕町に居住されました。


1.概要
 徳川家康は、慶長五年(一六00年)、関ケ原戦の功績によって、福井の初代藩主、結城秀康(家康二男)に、加賀前田家百十九万五千石に次ぐ越前七十五万石を与え、全国第二の大大名として越前国に人国させた。
 秀康は.翌六年九月より北庄城改築にとりかかり、慶長十一年に完成した。
 秀康の生母(御簾)は、結結城晴朝(秀康の養父)と共に、慶長六年八月、多数の族僚を率いて北庄に入り、晴朝は従臣と共に片柏村に居を構えた。
 晴朝は同九年、片粕村前に二百七十八問(約六百メートル)、片粕村後(うしろ)に八百八十間(千五百八十メートル)という長大な水路を聞き、平時には農耕に、戦時には防禦(ぼうぎょ)用の堀として竣工した。
 現在その屋敷跡は、民家が建ち並びはっきりしないが、今日の結城家の辺りが正面御門であったと推測される。
 また、当時を思わせる屋号しらしき(城屋敷)、いくさだ(戦場〉、ゆりのち(弓の家)、ばんば(馬場)などがあり、往時をしのばせている。
 晴朝は慶長十一年、北庄城完成まで約五年間、この地に在居された。


2.清水町(旧清水町)史一口噺(ひとくちばなし)片粕に隠居住まいした結城晴朝(ゆうきはるとも)
(1)晴朝の先祖
 治承四年(一一八〇)八月伊豆へ流されていた源頼朝が平氏討伐の兵を挙げ、石橋山の合戦に敗れて安房へ逃げたが、関東武士を味方にし、房総半島を北上、三万余の大軍で、十月二日隅田宿(現東京都)へ陣を取った。
 その時、元頼朝の乳母、下野国(しもつけのくに)(栃木県)小山の豪族小山政光の妻寒河尼(さむかわに)が、十四才の末子七郎を連れて会いにきた。頼朝は非常に喜んで子供の頃の話で一夜を明かし、寒河尼の頼みにより、乳兄弟(ちきょうだい)の七郎を側近の武士とし、元服させて自分の一字をやり「小山七郎宗朝(むねとも)」と名乗らせた。(後に朝光(ともみつ)と改む。)
 朝光は頼朝側近十一人の中に加えられて手柄をたてたので、功により結城郡(茨械県)を頂き、結城七郎朝光と稱し、頼朝から足利氏と同格の許しを受けた。結城氏初代である。
 其後代々鎌倉幕府の重臣として働き分家も多く出来た。元弘建武の頃は、奥州白河(福島県)の分家、結城宗広・親光(ちかみつ)親子が南朝方として活躍、宗広は北畠顕家(きたばたけあきいえ)の補佐役をした事は有名な話である。
 本家は六代朝祐(ともすけ)が、足利尊氏に属して働き、其後代々室町幕府に任え、関東公方(くぼう)の足利氏の重臣としで働いた。十一代氏朝(うじとも)の時、公方の持氏(もちうじ)民が将軍(六代)義教(よしのり)に叛いて攻められ、鎌倉で自殺した。幼い遺子(いし)春王・安王は日光に遁れ(のがれ)、結城氏朝に頼った。氏朝は二王を奉じ結械に篭城、一年余幕府の大軍と戦かったが遂に落城自殺した。(嘉吉元年四月十六日)(結城合戦と云う)
(2)晴朝の先祖(続)
 嘉吉元年四月、結城落城の結果春王・安王は捕らえられ、京都へ送られる途中、関ヶ原近くの垂井で殺された。処がその年の六月、幕府の重臣赤松満祐(みつすけ)が将軍義教(よしのり)を戦勝祝賀に招いて、祝宴中将軍を部下に取り囲ませて殺した。
 それで幕府では八才の子義勝を七代将軍とし、赤松満祐を攻め亡ぼした。その八年後宝徳元年(一四四九)信濃に逃げかくれていた持氏の末子成氏(しげうじ)が鎌倉に入り関東公方(くぼう)に任ぜられた。そこで成氏は、結城氏朝の末子成朝(しげとも)が逃げていたのを召し出し、結城城主とし結城家を再興させた。
 成氏が鎌倉ヘ入って間もなく、関東管領(かんれい)(公方の下で関東を治める役)上杉憲実(のりぎね)(侍氏殺した仲間)の子を殺し憲実を鎌倉から追い出してしまった。それで幕府では駿河(静岡)の今川範氏(のりうじ)に命じ鎌倉を攻めさせた。成氏は鎌倉を焼き払われ下総(しもふさ)古川へ逃げここを本城とし古河公方と呼ばれる様になった。成朝は古川公方の重臣として成氏を助けて働いた。
 七代将軍義勝は嘉吉三年七月赤痢で死亡(十才)。弟の義政{八才)が八代将軍となった。寛正二年(一四六一)成氏が幕府に従わないので、義政の弟政知(まさとも)を関東に下し成氏討伐を命じた。然し関東の武士はほとんど成氏に従ったため関東へは入れず、伊豆の堀越に居城を構えた。これを堀越公方呼んだ。政知には先妻の子茶々丸と後妻の子義澄があった。政知死後、義澄上京。継母と茶々丸の争に乗じ北条早雲が伊豆を占領、小田原に入り戦国大名となった。
(3)晴朝戦国に生きる(一)
 結城十六代政勝は、一子明朝(あきとも)が若死にしたので、弟高朝の二男晴朝を養子にした。時は戦国時代、政勝は重臣の意見を入れ、家臣・領民の結束と支配強化のため、結城家法百四条を定めて守らせた。
 永禄二年(一五五九)八月、政勝が死んだので、二十六才の晴朝が十七代を継ぎ、家法三ヶ条を追加完成した。そして政勝の意志を継ぎ小田原の北条氏康と結んで、古河公方足利義氏を盛り吹てた。
 北条氏康は、公方義氏と仲の悪い関東管領(かんれい)上杉憲政(のりまさ)を攻めて関東から追い出し自分が関東管領(自称)となった。
 追い出された上杉憲政は越後に逃げ、長尾景虎に助けを求め、上杉の姓と管領職を譲った。そこで景虎は上杉景虎(謙信)と改め北条氏討伐を約束した。
 永禄三年正月、晴朝が義氏護衛に関宿(せきやど)に行った時、留守をねらって北関東の領主達は上杉方に味方し北条方の結城を攻めた。これを知った晴朝は待伏(まちぶせ)している敵を破って城へ帰り、直ちに城の守りを固め、分散していた家臣を残らず結城城に集め籠城した。敵の攻撃は七日から始まったが晴朝指簿の結城勢は死力をつくして戦い敵に大損害を与えたので、遂に城を落せず和睦した。晴朝は出城をいくつも取られたが滅亡の危機をのり切る事が出来た。
 九月に入ると上杉謙信は大軍を率い三国峠を越えて上野(こうずけ)(群馬県)に入り、北条氏に攻められ困っている北関東の領主達を味方にし、武蔵(埼玉)を従え、翌年三月には小田原城まで攻め込んだ。晴朝は今までの経緯(いきさつ)から謙信の軍には従わず中立の立場をとり城を守っていた。
(4)晴朝戦国に生きる(二)
 永禄四年(一五六一)三月、十一万余の大軍で小田原城を包囲した、上杉謙信は、鎌倉鶴ヶ岡八幡宮正式に関東管領に就任し、武田信玄との戦いのため、城攻めは止めて越後に引掲げ、八月には川中島で決戦をした。
 永禄六年四月、謙信は北関東で唯一つの北条方、結城城を落そうと大軍を率い攻め寄せた。その時謙信方となっていた兄の小山秀綱が北条氏の援軍も無い事だからと、講和を勧めたので、謙信と和睦して謙信に従がい事なきを得た。
 七年四月、謙信が越後へ引揚げると、六月には北条氏政が結城城を攻めたので、晴朝は古河公方を護るため戦わず北条氏政に従うことにした。
 この様な戦いが十年余繰り返されたが、晴朝は天正三年北条氏の私物化されている古河公方を護る事を止め、北関東の佐竹、宇都宮氏等全部が力を合せ北条氏にあたる事にした。天正五年二月と六年四月、北条氏が大軍を率い攻めて来たが、協力してこれを追い払った。
 その問、桶狭間の戦(永禄十年)信玄の病死(天正元年)長篠の戦(同三年)、謙信の急死(同五年加賀まで平らげ六年三月出陣の時脳卒中)と関東の情勢も変り、京都方面でも、天正十年(一五八二)六月本能寺の変、十一年四月賤ケ岳の合戦と大きな変転があって、羽柴秀吉の世を向える形勢となった。晴朝はこの機をのがさず六月、多賀谷(たがや)氏を京都へやり戦勝祝と友好の予紙を送り、その返事を受けた。
 晴朝は二十六才で家を継いでから約三十年間、北条上杉に挟まれ十六回の戦を戦いぬき、天正十五年九州征伐を終った秀吉の小田原出陣を待った。
(5)秀康を養子に迎える
 天正十五年(一五八七)五月、九州を平らげた秀吉は、残る関東奥羽を従えようと、十七年十一月諸大名に、小田原北条氏征伐の出陣令を出した。徳川家康には箱根の先陣、上杉景勝・前田利家には上野(こうづけ)(群馬)から南下攻撃の大将を命じ、自らは十八年三月一日、直属軍三万二千を率いで京都を出発した。四月初め、箱根の出城を攻め落し、二十五万の大軍で海陸四方から小田原城を包囲し、出城を次々と落として行った。
 晴朝はそれに応じ兵を挙げ五月初め、北条方の小山・榎本(えのもと)城を攻め落として小田原に向かい、五月二十四日秀吉の本陣ヘ御目通りした。秀吉は非常に喜んで六月初め、武蔵忍(むさしおし)(埼玉県行田市)城攻めに行く浅野長吉軍に同行を命じた。晴朝はその城攻めに加わり二十七日降伏開城させた。
 七月五日小田原城を攻め落した秀吉は、十七日奥羽征伐のため小田原を山発した。途中二十五日、晴朝は秀吉を結城城ヘ案内して一泊の接待をし、秀吉を非常に喜ばせた。翌日宇都宮ヘ進んだが、そこで晴朝は家老を秀吉の所へやり「晴朝はもう五十七才にもなって後継ぎが無いので、適当な方をお願いしたい。」と申し上げた所、秀吉はすぐに「結城は関東の名家であるからわしの養子秀康(家康の二男十七才)を遣わそう」と即答し家康の了解を得て後継に決定した。
 そこで八月六日秀康は、晴朝の外孫(そとまご)鶴子(養女)の婿となって結城ヘ入城、十万一千石結城家十八代を継いだ。跡を譲った晴朝は、結城の西一里、川と沼田に囲まれた舌状台地に築かれた、中久喜の栃井城に隠居した。その頃「秀康が孝行して呉れるので嬉しい。」と高野山へ書き送っている。
(6)晴朝片粕に移る
 秀康が結城城主になってから十年目、慶長五年(一六〇〇)九月十五日関ケ原合戦があったが、その際二十七才の秀康は、石田三成方会津の上杉景勝押(おさ)えの大将として字都宮に陣し、その追撃をくい止め手柄をたてた。その功により、十二月末越前六十八万石を与えられた。
 そこで越前北庄(きたのしょう)(福井)入国準備のため六年二月、家老本多富正を越前へ下した。そして晴朝の隠居所としては、北庄の西約四キロ、日野川と沼田に三方を囲まれて、栃井城に似た要害の地片粕村を選んだ。屋敷等の工事は晴朝お抱えの大工岩村父子を片粕へ来させて行わせた。偶然か、片粕の隣には前の隠居城中久喜栃井に似た名の久喜津、栃谷がある。
 五月秀康は伏見城から結城ヘ帰り、家康の代官伊奈備前守(びぜんのかみ)に結城城を渡し、又伏見へ戻った。晴朝に取っては、四百年の歴史を持つ結城を去らねばならなくなり、残念ではあるが秀康に従って越前へ行く決心をした。そして家臣達には、越前へ従って来るか、侍をやめて結城に残るか、他の大名に任えるかそれぞれの意志にまかせた。
 七月秀康が家臣を従え伏見から北庄に入ると、晴朝は八月、秀康の母お万の方(長勝院(ちょうしょういん))正室鶴子、晴朝の家臣達を従え、はるばる結城から越前片粕村の屋敷ヘ入った。人数の記録は無いが何百人もの人が入って来たと思われる。
 そこで秀康は、晴朝に五千石、長勝院三千石、鶴子千石、鶴子の甥水戸三七(さんしち)千石を当てがい尚(なお)岩村大工父子百石、晴朝の直臣(じきしん)三名、元からの家老山川讃岐(さぬき)多賀谷左近(さこん)が晴朝の世話につけた家臣各(おのおの)三名にそれぞれ三百石乃至(ないし)百石を与えた。
(7)晴朝と片粕村
 晴朝の館は方一町(約百メートル四方)許(ばかり)の所とあり、現在の結城・山本家の辺り、北と西は低い山、南と東は道で区切られた所、水豊かな古い井戸が二つ残っている。家臣達はそこから朝宮境へかけて住んで居た様で、中町・小人町の地名が残っている。
 慶長六年九月から北庄(福井)の築城が始まり、家康の命で多くの外様大名が手伝い十一年に完成した。慶長七年、城内の漆ケ渕(うるしがふち)(現福井駅前南通三叉路附近)に晴朝の御屋敷が出来たので、家臣を連れてそこヘ移ったが、築械工事で騒々しいので、片柏館ヘ帰って居る事が多かった。
 片粕村の記録によると、慶長九年に、村前朝宮境岩渕からお宮の山の出っ張り迄約五百メートル、村後お宮から今の久喜津橋詰→更に西へ一直線に竹生の山端まで約千六百メートル、底巾九メートル・高さ三メートル・上巾(馬ふみ) 三メートルの大堤防を造って日野川の洪水を防ぎ、外側を堀としで城の役目もさせ、田の用水は志津川の水を三留から竹生を通って片粕へ引き、堀の用水にもしたとある。
 慶長十二年閏(うるう)四月八日、秀康が三十六才で病死、その遺言により五男五郎八が結城家を継ぎ、晴朝は四才の五郎八に片粕館領五千石を譲って後見となり片粕館で育てた。
 慶長十九年(一六一四)七月二十日、晴朝は故郷結城ヘ帰りたい望みも空しく漆ケ渕館で死去した。八十一才。(其の十年後寛永元年、五郎八直基(なおもと)が勝山二万五千石の殿様となって移ったので片粕総は廃止された。)


4.交通アクセス
 京福バス茱崎線「新片粕」停留所を下車、徒歩約5分。又は清水グリーンライン「ハイツ中央 」を下車、徒歩約10分。 


5.周辺

  • 清水北小学校(グリーンハイツ)
  • 清水北公民館(グリーンハイツ)
  • 清水東小学校(三留町)
  • 清水東公民館(三留町)
    結城晴朝館跡 (pdf)

6.参考文献など

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市民生活部 清水連絡所
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